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どうも自分の気づかないところで、何らかの消耗が続いているようです。
そうでなくては、気力と体力があまりにも少なく、それが本来であるとするならば
この歳まで生きているということが難しいはずだからです。

それは極めて個人的な、とりわけ認知に関わる部分であると予想されます。
というのは、もしそれが社会的なもの、物理的なものであれば、
すでに解消したもの同様、わかりやすく存在する消耗であるはずだからです。

ひとまず、朝は音楽を聴くことを控えることにしました。
今週の休みには床屋に行く予定です。
読みかけの本が職場の机を圧迫しているのも、神経にさわります。

あとは生活への不安ですが、これについては、認知行動療法の成り立ちについての本を読んだことによって、
「なんとかなるさ」と思うことに、以前ほど白々しさを感じなくなりました。

かえって、そのように、わかりにくいほど小さなことに患うということは、
何らかの大きな危機が過ぎ去った証拠であるようにも思えます。

吹雪がやんでも雪洞にこもっていては、次の吹雪を待っているようなものです。
おそるおそる外に出て、またほんの少しでも先に、新たな雪洞を作ることを目指します。

89

できるだけ他人と関わることを控えているのですが、何も人と一切口を聞かないというわけでも、誰の前にも姿を表さないというわけでもなくて、以下の4点を意識しているに過ぎません。

・他人にものを頼まない
・他人に頼まれたことをしない
・他人と一緒に何かをしない
・他人と一緒の場所に長くいない

ただ、場所については限界があるので、どうしても一緒にいることを回避できない場合は、音楽を聞くなどして自分の世界に没入します。

こういった他人を避けるこころの働きも、一時的なものであると思いますが、いつまで続くかは分かりません。

それに、自分の世界を維持することには、少なからぬメリットがあります。

問題は、やはりそれでどうやって生計を立てていくのか、という点ただ一つです。

一人で仕事をしている人というのは世の中に大勢いるはずなので、

そのために必要な情報を収集していくことに、1日の時間を割いていけたらと思います。

88

どれだけ自分が前向きに、明るくなったとしても、今までしてきた失敗が帳消しになるわけではありません。

それを踏まえると、自分が真っ当に生きようとすることを、妨げる力が働くことを感じます。

他人を傷つけた失敗を、無かったことにすることは、私が逆の立場であるとき、控えめに言って怒りを覚えます。

しかし、傷つけた張本人が、死んだということであれば、これを怒りつづけることができません。

失敗が存在ごと消えた場合に怒ることができないということは、失敗(罪)を犯した人間が、生きているということが、許せないということに由来するのかもしれません。

仮に、私がそういう人たちを許したとしても、それが許しを乞うことの根拠にはなりません。

人が失敗から身軽になるために、信仰の力を借りるという歴史もありますが、私はそれに与するつもりもありません。

唯一できることは、同じ失敗を繰り返さないようにすること。それも決意などではなくて、環境設備によってその可能性を摘むことです。この点においても、私は私の内面を信用することができないためです。

すると、内面の働きによって起こった環境の変化にも、なんらかの抜け道が用意されていることが想定されますが、それでも何もせず、ただ決意を新たにするよりは良いでしょう。

87

ネガティブな思考によって、自分の環境を変化させていった結果、

今は自分一人でできる仕事がないかを模索しているのですが、

仕事に関わらず、生活全般に対して、自分専用のOS(オペレーションシステム)の必要性を感じます。

それをいくつかのツールの組み合わせで実践しているのですが、

大事なことは変化させることであるようです。

最初から最適なものを作れるとは思わないので、エラーを起こすたびにそれを改良するという意味でもあるし、

そのシステムを使う主体である私が変化するので、それに合わせてシステムも変化させる、という意味でもあります。

すると生活OSとしてパッケージされたものを使うのではなくて、複数のツールの相互関係によって、OSを浮かび上がらせる。といったやり方が良いのではないかと考えて、それを実践しています。

ただし、これはあくまで私個人のみを想定したシステムなので、他の人に適用はできず、さらに私自身においても、他の人との関わりについての領域については、作動しないものであると思います。

とはいえ、他人と関わる領域もまた変化しうるので、その折にはまた、OSを変化させていく必要が生じるでしょう。

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座高が高く、また目も悪いことから、前かがみの姿勢でいることが多かったのですが、

歳をとるにつれて、首と腰にかかる負担が耐え難くなってきたので、最近は背筋を伸ばして過ごしています。

顎を引くと、首にめり込んでしまうので、やや前傾姿勢ではありますが、今までとは違う筋肉の使い方でまだ慣れていません。

学生時代は机に突っぷすことが多かったので、腹部を圧迫しつづけて胃を悪くしました。

そういう身体性について、ようやく意識しはじめたのですが、もう少し早く取り組めればよかったと思います。

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時間帯を区切って、それまでにできなかったタスクについてはもう諦める。というルールにしたところ、随分気が楽になりました。

順番通りに完了することに固執しても、結局後半のタスクを消化できない。つまり1日の区切りは避けられないのだから、

その区切りを細かくする。ということには精神衛生に一定の効果があるようです。

遅れている・終わっていない、ということが、事実としてではなく認識として精神を圧迫してくると、そこには自責の念が発生します。

私の場合、自責が始まると進捗が著しく低下するので、これを最優先で回避しなくてはなりません。

朝のタスクができなければ、次の朝再挑戦するということにして、昼のタスクに影響を出さない。今のところは、この考え方で随分快適になっています。

84

ネガティブなことを口癖にしてしまうと、それが自己暗示になるということに、かなり心当たりがあります。

ひどい失敗を二度と起こさないために、暗示を利用することが多かったためです。

今、他人と距離を置いて、ほぼ一日中一人で過ごせるようになってきた段階で、

従来は「安全装置」として働いていたそれらの暗示を、解除していく必要が出てきました。

別の暗示で上書きするということが良さそうなのですが、極端に前向きな言葉というのは拒否反応が出てしまいます。

良し悪しのない、中間的な言い回しを経由して、行動と能力に対する規制を外していかないと、十分な進捗が出せません。

もっとも、過去に引き起こした失敗を、今度は暗示と別の「安全装置」で防がなくてはなりませんが、
とりあえずは「他人と関わらないこと」によって、代替していこうと思います。