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自分が死ぬということは、恐ろしいことです。まず、そこに至るまでに間違いなく未曾有の苦しみが発生します。

しかし、そこから先はどうなるのか分からないというか、分かるかどうか、ということですらないのだろうという気がします。

ただ、生きている人間としては、毎日必ず意識を失っているし、細胞単位では自死をし続けているわけです。

その小さな生と死による点滅は「代謝」と呼ばれるし、個人の単位を超えて「人口」や「人類」と呼ばれる単位で考えると、個人の死もまた「代謝」と呼ばれることさえあります。

私が望むことは、その「代謝」のサイクルを、何らかの形で食い止めようとするのではなくて、それを淀みないものにしようということです。

従って自死は、その極端な不自然さによって否定されるものとみなされます。この場合の不自然さとは、人間の意識が生み出す「認識」というまやかしに基いているという点において発生しているため、そこに、論理的な整合性や、社会的要求などというものがあると主張する者がいたとしても、その主張そのものがもつ不自然さを含め、覆すことのできる否定ではありません。また、ここで言う認識には身体感覚を含めます。

翻って、日常生活における小さな代謝のうち、自覚的に働きかけることができるものについて、淀みなく(自然に)することができれば、それが最終的に個人単位の生死のサイクルをより良いものにする可能性があります。

個人単位の生死のサイクルについて、何を持って「良い」とするかについて、私は「苦しみの無さ」を基準にしようと思います。

あるいはそこに「苦しみの報われ具合」も含めていいかもしれません。まったく苦しみの生じない生活というのは、それよりも小さな単位における「生死」になんらかの停滞があるように思われます。

以上のことを踏まえて、私は生活における「生死」の小さな単位として、まず肺呼吸を深く穏やかなものにしようと心がけていこうと思います。