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本には具体的な行動が紹介されているものがあります。自分の行動には何の意味も価値もない以上、それでも他人のとる行動を模倣することは、いくらか気分を良くしてくれるようです。

私は私以外の全ての人を、私ではないという理由だけで尊敬し、畏怖します。同時に私を私であるという理由だけで侮蔑し、忌み嫌います。

しかしそれも社会生活のために前提とされた認識に則った考え方ではあります。生物としての一個体ごとに主体を区別することは、あたかも当然のことのように議論されますが、意識というものが何なのか定かではなく、少なくとも間違いなくネットワークとしての性質を持っていることから、では生物一個体間のネットワークとどう区別するべきなのか、ということも不明です。

ありていに言えば、私が私を嫌っていると、その「私」の形成にネットワークとして関わった他人に対しても、その「嫌う」要素を見いだせることになってしまい、先述の他人と私に対しての主張が、成立しなくなってしまいます。

であれば、私の主張などどうなってもいいので、個人の内外のネットワーク同士の結びつきを、より厳密に捉えることを優先していきたいです。

本の話に戻ると、内容に感化されて行動を起こすという時、私には外圧による変容が生じていることになりますし、その外圧そのものの一部と化すという捉え方もできます。つまり、私がある部分において私ではなくなるということです。

私は私でいたくないので、この変容はとても魅力的なものだと感じます。一方で、どんなことをしても、自分の悪徳から逃れることはできないだろという諦念もあります。魅力に対する期待と諦念を同時に成立させるものがあるとしたら、それは夢想による逃避です。

以上の理由によって、私は本を読むことと、それによって行動を変化させることを好んでいる人間です。