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何かを伝えること、特に他者に対して「拒否」すること。当然そのことを表明する以前に、感じてしまう時点で、利害の不一致による闘争が開始されてしまうわけですが、


相手にとって不都合な要求をするというときに、相手を懐柔することなしに、無理やりに言うことをきかせるということを望む者は、押し並べて暴力の行使者であるという立場を、私は取ります。


ハンガーストライキによって大人数の怒りを増幅させ、自らの要求を相手に認めさせようとしたガンジーは、少なくともその活動においては「非暴力」ではないと解釈しますし、


大声を上げる、徒党を組む、という行為も、自らの要求を、立場の違う相手に暴力的に飲み込ませようとする態度であると感じます。


利害の調整はもちろん必要で、しかしその場面において、いかに暴力を介入させないか、ということを考えつづけるという態度は、単純に暴力行使者との非対称性によって極めて脆弱で、鈍重な態度であるといえるでしょう。悪意が善意を駆逐する場面を、漠然としたものではありながら、いくつも思い浮かべることができてしまいます。


ただ、悪意ありき、怒りありきで物事を推し進めようということの方に、「何を悠長なことをしているのか」というように、人によっては逆の印象を抱いてしまう人間もいて、私はその一人です。


対立軸とは別の世界を、立ち上らせること。曖昧に、なし崩し的に、夢の途中でやむなく起き上がるときのように、確かに感じていたことが、まるでどこにも無かったかのようになることをも、絶え間ない闘争と同程度の頻度で、私たちは見かけてきたのではないかと思うのです。


裏を返せば、「暴力」は「共生」におけるエッセンスに過ぎず、それを前面に押し出すことは、たとえ弱い立場であるとしても、このユビキタスが強化された環境においては有効な手段にはなり得ないのではないかという、残忍な発想を持っているということでもあります。


かといって、私も誰も彼も、理屈に忠実に行動をできるわけではないので、ここに書いていることは当事者性を欠いた、うわ言にすぎないということになります。