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職場や学校という場面において、いじめやハラスメントに対して憤慨している人々が、しかしSNS上で飛び交う罵詈雑言については、その義憤を差し向けないということに、滑稽さを感じます。


しかし、行動を起こす人、行動を起こした人に対して行動する人、行動を起こさない人、どのような種類の人も、嘲り笑うことができません。私もその滑稽さに加担しているためです。


どちらかというと、「気にくわない」「いるだけでイライラする」と言われ続ける種類の人間として生きてきた私ですが、それでも全ての人に高いモラルを求めるよりは、何らかの棲み分けが必要であると考えます。私よりはマシであるとしても、誰にも理想的に振る舞わなければいけないという呪縛を自らに課す義務はありません。


ひとつに、内面は制御できないし、されるべきではない、という考えを持っているためです。内面を制御することで、結果的にさも聖人のように振る舞うことを、少なくとも私は他人に求めることができません。同時に、他人が自発的に聖人たろうとすることは、どんなに見込みがなくても止めることができません(これを聖人たらんとする内面の発生とみなすので)。


Twitterにはブロック機能やミュート機能がありますし、利害や思想、立場や状況の食い違う人間と、どこかで折り合いをつけるために、国家というSocial Network Systemには法律があります。


誰かを口汚く、あるいは面白おかしく嘲笑う人がいれば、わざわざリプライやDMなどで「つまらぬことはやめろ」という人が、これから先現れるでしょう。彼らは興奮や面白さに興じることよりも、もっと切羽詰まった問題に自ら直面しようとする、何らかの「呪われた」人たちであると私はみなします。私は彼らの邪魔をしないような人間でありたいがためにも、引き続き他人との関わりを希薄に保っていくつもりです。