死ぬまでの時間
何をしても虚しい。何をしても、しないほうが良かったような気がしてしまう。
してよかったと思ったこともあったはずだが、思い出せない。
何らかの結論が先にあって、そのために自分自身の印象操作が行われているようだ。
それは己の身を守るこころ、精神的な防疫の観点から行われる代表的な愚策の一つである。
いつでも事実や記憶から、うっすらと剥がれて、浮き上がることが現在圏にあることの特権なので、そのような自己政治的な態度に屈する必要があるわけではないけれど、これからずっと、熱狂と忘我抜きにはこの気持から逃れられないという宿命は重い。
陰鬱な気持ちの中でそれでも出来ることがあるとすれば、足を踏み外さないように踏み外すよりもなお踏み外す、つまり踏み出すということと、その唯一の出口となり得る熱狂と忘我への道筋を、頭の中に組み立ててから、何度も水を流し込むということだ。
僕は直接関わりを持つ人間を、不幸にせずにはいられない。それが僕だけの問いだ。他の誰かが言う「人とのつながり」という解決策を選択することのできない人間が、ではどうやって苦しみと折り合いをつけて生きるのか。ということを、自分の人生を賭けざるを得ないほどの、絶望的に巨大な問いであるとする。
死者と幽霊は対価を授けてはくれない。生きている他人とのあいだに「この世」を発生させないままでいると、殺されてしまう。今度は僕が死者として、消費されてしまう。
いずれそうなるなら、今そうなる必要もない。いつももう少しだけ、生きていることのささやかなメリットを行使したい。だけど、誰とも直接関わらずにどうやって生きていくことができるのか。
そのための能力を含めた、一切の能力の向上は見込めない。救いの手を、触れた先から腐らせる者は救われない。ただ、何の成果も訪れないにも関わらず、それをせずにはいられないということだけをやる。
そうして、自らの寿命をいたずらに縮めるようなことがあっても致し方ない。元々、この年まで生きているべきではなかった。何度も死ぬことのできるタイミングがあったのを、何か思い違いをして生き長らえてしまっただけで、余生を通り越して死後の世界に相当する生である。
何もかもどうでもよいという類の自由は、僕には贅沢すぎるので、結局惰性で時間を潰すばかりである。もう誰とも直接関わらないし、どんな仕事もしない。また、させてもらえないだろう。どんな能力もなければ、何を言っても誰にも聞こえない。それでもいいから、ただ死ぬまでの時間を潰すものとして、テキストを延々と作っていくことができたらいい。
何もできず何もわからない人間が作るテキストに、何らかの意味があるとは思えない。意味や価値はおろか、意味や価値ではないものですらない。