したいことがあるのに出来ない

 いつまでも何かをし続けることはできないわけで、やがて死ぬ。

 

 死ぬまでいかなくても、生物としてせねばならないことがいくつもあって、それぞれが、し続けることのピリオドになる。

 さらに、社会や他者との関係における、連絡や意思疎通によって、一連の行動が中断されるということもある。

 なんの外的要因もなく、単に疲労や連想によって、別の行動へ移ることもある。体勢を変えることを目的として、行動を中断する場合もある。

 


 ここでいう「一連の行動」を、「一連」たらしめるものは認識である。行動は「生きる」から「脳に微電流が流れる」程度まで無数の分割を可能とする。

 何かをし続けるというときに、それが物理的に連続していない場合でも、認識においては「し続けている」ととらえることが可能である(食事・排泄・睡眠に中断されながら、人は「勤務し続け」たりする)

 


「したいことがあるのに出来ない」という状態が、僕の一日の大半を占めている。開始することができないためである。

 それをせずに、成果のみを享受したいという怠惰な欲望のあらわれかもしれないが、作業興奮がほぼ間違いなくあり、それを求めているにも関わらず、むしろ「やり始めるとやめられないから」開始することができない。という気持ちの時もある。

 


 しかし、何かをし続けていること、またはそれらが中断されるということは、認識によってある程度、解釈しなおすことができるはずである。

 屁理屈ではあるけれど、こうして楽器を練習していない現在の状態を、「数年楽器を練習している」という表現の中に含めることができてしまう。

 逆に、こうして文章を作っている現在の状態を、「断続的に打鍵し、画面の変化を確認しているだけで、文章を作っているとは言えない」と表現することもできる。

 


 もはや向上心の喪失によって、「したいことがあるのに出来ない」に何ら羞恥心も罪悪感も抱かなくなってしまって久しいが、その状態が持つ矛盾と、それを生み出す認識の構造に興味がある。

 同様の、認識上の問題が「僕は何もできない」という命題に含まれているのだろうけど、こちらは自他の利益を守るための詭弁として採用しているものなので、ここで分析の対象とはしない。

「何もできない」まま、しかし「したいことができる」人間になりたい。

 


 認識をもたらす思考そのものが、言語という限定された形で出現することを、「去勢」と呼ぶ哲学者もいたけれど、そのようになんらかの欠落を伴ってでも出現させること、有限性と引き換えに、何らかの認識が開始される権利をもつことを、もっと汎用性のある仕方で身につけることができたらと思う。

 ただ、「身につける」というと能力の獲得のように聞こえるかもしれないけれど、自分について能力の向上を想定しないという前提の上で、それは衣装のように纏うか、装着するという意味での「身につける」である。したがってそれは、性質であるより道具である。

 性質は変遷を免れないが、道具は手入れによってその有様を維持させることができるかもしれない。維持させることができないのであれば、都合の良い変化が生じ続けるのでも良い。

 


 毎日のルーチンワークとして、いくつかの作業を取り入れるという試みは崩壊した。体調や対外用件によって、厳密にそれを維持することが妨害されてしまう。

 厳密に維持されるのでなければ、もはや何も決まっていないことと変わりない。そう思って予定を一切立てないで過ごした時期もあったが、これは無駄が多かった。

 現在は、一日のうちに何をするかを決めて、ただし順番や時間帯は固定しないということで、なんとかやれている。

 それでも、「したいことがあるのに出来ない」は発生する。圧倒的な力でねじ伏せるような道具は求めていないので、現況を少しだけ改善できる補助具のようなものを求めている。