とぼとぼ

 休日ということで、仮眠を2回とって過ごした。平日と同程度の作業ができたし、ある程度体調も回復したので良しとしたい。逆に、平日の作業水準がずいぶん低いなとも思ったけれど、勤務先で出来ることは限られている。

 自宅で過ごすと、散歩や仮眠という脱線が可能になってしまうのだけど、これが良いのか悪いのか、いまいち判断できない。その分、腰痛に耐えながら作業をしたり、カフェインで眠気を散らす必要がなくなるからだ。

 一日を濃く過ごせたとしても、疲労を精算しきれずに、翌日何もできなければ意味がない。気力・体力ともに、一般的な水準に達しないために、持続可能な活動量は極端に制限される。だいたいまともに何かしらの作業ができるのは、合計でも3時間程度だ。

 店番をしながら、締切のない請負の仕事を少しずつ進めていて、一生このように暮らせたらと思う。しかし、収入はそれらだけでは十分ではないうえに、今年いっぱいとの期限付きであるために、それまでに次の方策を打たなければならない。

 ブログで収入を得るということについては、既に数年前に試しており、適性がないことが明らかになっている。あくまでこういったブレストは、副次的なものという扱いで、それによって、生活そのものの質を向上させる一助としたい。しかしここでいう生活の「質」とはどんなものだろう?

 僕はそれを暫定的に、理想の生活までの距離感だとみなしている。理想の生活とは、「やろうと思ったことだけを、やろうと思った分だけ、やろうと思ったやり方でやり続けるだけで継続可能な生活」というもので、そんな生活を実現させるには、どんな要素が揃えばいいのかを逆算し続けているのだけれど、どうも現実味がなくて、いつも絵空事の域を出ない。

 ただ、自分がやりたいことを、既にやっている人というのが見当たらない。テキストにしても、イラストにしても、音楽にしても、自分がやっているものは、自分が見たり聴いたりしたいものである。それをやっている人がいないので、仕方なく、力がまったく及ばないことも承知の上で、自分でやっている。だから自分の作品は総じて不出来であるにも関わらず、好きなのかもしれない。

 方向性ということだけでなく、量や頻度ということについても、自分が求めている程度を実現している人がいない。実際にやってみて、それがどれだけ大変なのかは思い知っているのだけれど、あるいは、それくらいのことが出来る人たちというのは、もはや商業としての次なるステージに挑んでいるために、かえって「それくらいのこと」をする人がいないのだろうか。

 だから自分がやろうとしていることは、素晴らしい人たちがやらなくてよいことをやる、ということになりそうではある。才能や能力のある人たちは、求められるところにそれをいかんなく発揮していればいいのであって、彼らが直接手を下す必要のない領域のことであれば、やっても良さそうだ。

 競合があれば、喜んでその席を譲ろう。その相手は僕が見たり聴いたりしたいものを作っていることになるし、おそらく自分よりも桁外れに上手であるはずだ。ただ、どちらにしても対価の望めるような所作ではないのだから、奪い合うパイも無いといえば無い。

 オススメのWEBサイトやアプリをご紹介するのも大いに結構なのだけれど、こういうどうでもいい、個人的な思考の渦を、一日に何度も投下するブログを、いくつも読みたい。不穏な落書きのようなイラストをいくつも眺めていたい。一人で鳴らす賑やかな音に、意味のない歌詞のついた歌をずっと聴いていたい。どれも十分に見当たらないので、とぼとぼと自分でやっている。