テクスチャしたい

 自分がしたいと思えること、体力の続く限りであれば、いくらやっても苦では無いことは3つ。線画を描くこと、ルーパーを使って曲を録音すること、そして、こうして駄文を作ることである。


 どれも児戯の範疇を出ず、今後一切の能力向上も見込めないのだけれど、それでもいいから、ただ、それらをやっている状態であり続けたいと思える。

 

 そうやって、没頭できることがあること自体は悪いことではないはずだ。しかし問題は、そういうこと以外は、ほとんど何もしたくないということである。

 

 新型うつ病のような傾向ではあるけれど、どちらかといえば生来の性質に近い。無理して一般人のような生活を送ってはみたけれど、早々に破滅して、今は普段なにをしているか分からないおじさんとして、天気のいい日はあたりをうろつくなどしている。

 

 自分がやっていたいと思うことの共通点としては、「誰に頼まれもしないものを、一人で作っている」ということが挙げられる。それでもって生計を立てなくないと言えば嘘になるけれど、作品するだけでなく、その対価を授かるという構造において、社会性が問われてしまう時点でその道は閉ざされている。もし十分な社会性があるのであれば、どうして今、この人生がこのように閉塞的であろうか。この救いのない顛末が、欠陥と不適合の厳然たる証明である。

 

 ともあれ、どうして「誰に頼まれもしないものを、一人で作っている」ことであればできるのかというと、そこには「失敗」が無いというか、「失敗」のもつ意味が相対的に弱まるからではないだろうか。

 

 他人の要求に応えようとすると、そこには要求に応えたのか、応えられなかったのか、という「審判」が下る。他者と協働する場合においては、その結果のみならず、作業における齟齬や否定的な情動が発生する。自分のやることは全て、そのいずれの領域においても「失敗」であり「不合格」であり「著しい適正の欠如」に該当する。したがって、残された道は「失敗」であり「不合格」であり「著しい適正の欠如」に該当しても、構わないことのみである。それが「誰に頼まれもしないものを、一人で作っている」ことである。

 

 しかし、どうして「作る」ことなのだろうか?例えば、似たような行動に「誰にも頼まれもしない穴を、一人で掘っては埋めている」ということがあるけれど、これはどうやら自分のしたいことではないようだ。

 

 おそらく作品を、後に自ら鑑賞するという態度が関わっているのかもしれない。自分の作ったものは、どんなにつまらなく、くだらなく、醜く粗雑であっても、己の心を慰めてくれる。それは、「誰にも頼まれず、自分一人が作ったもの」であるだけで十分なのだ。

 

 ただ、将来の自分に向けて、一つ注文があるとすれば、それは作品の頻度を上げてほしいということがある。気が向かない限りは、いつまでも何もしなくていいという怠惰な自分としては「何もしていないのに、自分の作品が自分用に作られていく」ことが理想ではあるけれど、しかしそれは作品作りそのものの高揚感を失うことでもあるので、結局自分の頭と手を動かしていくこと以外に無い。そしてその頭と手というのは、往往にして、今の自分の頭と手である。ということで、この文章を作る。

 

 「テキスト」の語源には「織物」があるようだ。テクスチャとはその文様や生地のことを指す。どのような分野でも、僕は何かに使う目的ではなく、したがって何にも使うことのできない、小さくて汚い織物を延々と一人で作る人生以外を生きたくない。