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何事かをなすことができれば、そこには能力と技術があったと考えられます。

それらを獲得可能にするものは、才能と知識です。

それを活かすことができるには、相応しい考え方や姿勢が必要です。

この中で操作可能なものは、考え方と姿勢であるかのように思われますが、

その2つですら、他人に言われて変わるものでもないし、自分で改めてもすぐ元に戻ってしまいます。

考え方と姿勢を生み出す、物語というか、脈絡とでもいうものがさらに存在すると考えたほうが良さそうです。

(あるいはそれが、私の「脈絡」によって生まれた「考え方」です)

ではその脈絡を、どのように操作することができるのかというと、これもまた、才能のように、自ら操作するということができないように思われます。人生を改変することが可能であれば、私はそこから都合の悪いものをトリムしていきたいです。

これら操作することのできないものの中に、操作ではなくても、選択の余地があるということを、錯覚かもしれませんが、考えていきます。

そのためにはまず、操作できないものを観察するところから始めるのも良いかもしれません。

A:私には何の能力も技術もなく、才能もなければ、知識と呼べるほどのものも持ち合わせてはいません。

B:惰性で生きていくことと、消耗を回避し続けることが、私の考え方で、生きる姿勢でした。

C:これらは今までの人生において、特に働くということについて、ことごとく失敗してきたという脈絡によるものです。

次に、これらの項目ABCの結びつけ方を改変することができないかということを、試していきます。

C→B :確かに就労ということについては、人生の大半を棒に振りました。しかし、それが時代の変化に対する「待機期間」だったと考えると、それを何とかやり過ごしたと捉えることもできます。

ここ10年の情報インフラの変遷は凄まじく、私のような人間でも、理想に近い生活を送れるのではないかと勘違いできてしまうほどです。従来は「惰性の力を消耗しないように生きる」ということが「待機期間」における正答だったものの、それを今からマイナーチェンジさせる必要を感じていないのかというと、嘘になります。

だからといって、余計なことをしてこれ以上失敗するということは、年齢から考えても避けたいことです。今までの手痛い失敗から、果たしてそれを防げるだけの教訓を得ているのかが甚だ疑わしく、また失敗の根底には矯正することのできない私の悪徳が関わっているということが、うすうす分かってきたという状況です(という「考え方」です。)

ですから、ある一種の行動を回避すること自体は間違っていない。しかし同時に、それが全ての行動を回避する理由にはなり得ない。そこで「一人で過ごしていたい」という「姿勢」をマイナーチェンジさせて、「一人で没頭する種類の仕事をしていきたい」に変えることには、かすかな有効性があると考えられます。

B→A:当然、「一人で没頭する種類の仕事」ができるような、能力も技術も、才能も知識もありません。

ここに挙げたものの中では「知識」が自分で獲得できるもののように思われますが、これは「必要な知識を獲得できるということ」という意味で、具体的には「自分の仕事を求めている人がどこにどれだけいる」というような、仕事によって生活を成立させるための知識を指しています。興味のままに収集できるトリビアルなものではありません。

では、これをメタにするとどうでしょう。つまり「仕事に必要な知識を、獲得するための知識」であれば、獲得できるのではないか、ということです。

これであれば、可能性を否定し切ることができません。SNSをザッピングするのでさえ、8割が無駄であったとしても、残りの2割は何らかの実利をもたらす情報であるということが、経験上想定できます。

では、他の項目においても、「知識」によってメタ化することが可能ということになってしまいます。能力を得るための知識、技術を得るための知識を、獲得することができるでしょう。

ただし、才能を獲得できる知識というものは考えにくいものです。才能というものは外部から取り入れる種類のものではなく、先天的なものを含めた「脈略」に関わるものであり、自分で操作することや、操作するための知識を獲得しようとすることに、有効性があるとは考えられません。

そのかわり、才能について、それを「自覚する」ための知識を得るということが可能かもしれません。才能などと呼ぶから仰々しいのであって、ここで言わんとしているのは、一個人が様々な理由で抱えている「偏り」や「傾き」のことで、従ってその性質を変化させることよりも、その性質にあった環境(労働環境を含む)を獲得しようとすることのほうが、まだ見込みのある考え方なのではないか、と思うのです。

さらに言うと、ここでその才能を「一人で働ける才能」と規定することは、控えめにいって雑な発想であると言えます。人間の傾きそのものに合うように設計された職業や働き方というものは必ずしも選択できるものではありません。一人で働くということを成立させるために、たとえば「他人と一緒にいると虫唾が走る」「でも自分以外の管理者がいないと作業が進まない」「体を動かしたくない」「短期的に高い集中力を出す、ということができない」「体が弱いが、大病はしていない」というような、複数の傾き、偏りを列挙し、それをどのように環境や設備と組み合わせるのかを考えて、「一人で働く」ということを成立させようとする。ということのほうが、少なくとも私の好み(私の脈絡に合った考え方)です。

以上をまとめると、以下のような内容になります。

A:私には何の能力も技術もなく、才能もなければ、知識と呼べるほどのものも持ち合わせてはいません。(追記)そこで、それらを獲得するための知識を獲得していきます。才能については自覚できる何らかの傾向を探り、生活設計に反映させていきます。

B:惰性で生きていくことと、消耗を回避し続けることが、私の考え方で、生きる姿勢でした。
(追記)それらを成立させながら、かつ労働などによって対価を獲得する環境を構築することを、上記の知識獲得の目標とします。


C:これらは今までの人生において、特に働くということについて、ことごとく失敗してきたという脈絡によるものです。
(追記)その脈絡を無かったことにしたり、否定することなく、これから生活を成立させることによって、自分の人生が無駄ではなかったという錯覚を覚えたいという気持ちがあります。

すると、次は具体的にどのような行動を起こすかということになります。今回のブレストでは「知識の獲得」ということに重きが置かれている印象を受けますが、ではどのような知識を得ようとするのか。メタ知識であれば、どの程度の階層におけるメタなのか、ということを、せっかくなのでもう少しここで考えていきます。
知識にアクセスする知識として、たとえば語学の有効性が想定されますが、一番勉強している英語であっても、まだ直接文献や記事を読み解けるほどの水準に達していません。これまでのペースを考えると、それを待つのは悠長すぎて不安が募ります。同時進行で、日本語の知識にアクセスすることを選択したほうが良いと思います。

ではどのような知識に日本語でアクセスするのか?概要としては「一人で生きていくための知識」であることは確かです。これをさらに分割していくと

1.一人で進捗を管理するための知識

2.一人でやっていることを収入につなげるための知識

3.一人でやっていることの質を具体的に上げるか、量や範囲を増やすための知識

といったところです。ここで今実際に手を付けてるものは、ほとんど3ばかりなのですが、1についてはしばらく集中的に取り組んでいたので今は食傷気味になっています。

ということは、ここで2の分野について知識を集めるということが有効であるように思われますが、この分野はゴミ情報やそれを商材とするものが多く、正直言ってあまりリソースを割きたくないと思っていました。

であれば、ここで想定されている、記事や本の購入などとは別の手段を取ると良いのかもしれません。個人コーチングのようなものを真っ先に思い浮かべますが、これは費用がかかるので強い抵抗があります。収入を得るということは、生活を成り立たせるということのための手段なので、その手段のために生活を圧迫しては本末転倒だからです。(生活に余裕があれば投資として可能ではありますが)

ここで考えはストップしてしまいます。ゴミ情報を選別することによる消耗を回避さえできればいいし、実際読んでよかったと思える本もあるので、結局は記事や本の購入くらいしか手段がないのだろうか、あるいは、費用のかからない形でコーチングを受けられる方法がないか、しかしそれも他人と直接関わることなので、きっと苦しい目に会うだろう・・・などと、自分の思考が停滞していくのを感じます。

当初予定していたボリュームを大幅に超えてしまったことによって、力尽きたというか、いったんこの話題に飽きてきたのかもしれません。この議論についてはここで一区切りとして、また後で自分で読み返していこうと思います。