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自分で作ったテキストを読み返してみると、明らかに私は狭くて偏った考え方をしている人間だと分かります。

そのことを自覚していながら、客観的な思考、そこまでいかなくても実利を生み出す思考ということができません。

そこで、ここでは自分が偏った狭い考え方をしているとして、それをどのように無化することができるか。ということを考えていこうと思います。

そもそも、どういった考え方が、実利を生み出す考え方であると言えるでしょうか。

ものを考えることは時間と精神力の消耗でもあります。そのため、例えば金銭の授受が発生するとしても、その消耗に見合った金銭を獲得できなくては、実利を生み出すとは言えません。

もちろん、長い目で考えれば、金銭などを求める思考というのは浅ましいものでしょう。しかし、この場合は、私の喫緊の課題である「生活の維持」にとって実利のある思考、について限定的に考えていくこととするため、逆にそのような悠長な気構えでもいられません。

同時に、ここでいう思考の実利というのは、このようなブレストを公開して広告費などを稼ぐ、ということまでは短期的なものを指してもいません。単にそのようなことは期待できないためです。

実利のためには少なくとも思考とは別の行動が必要です。そこで、ここでいう実利のある思考というのは最低限、行動を伴うか、誘発する思考であるということと仮定します。

そして、行動は起こせば間違いなく実利があるということではありませんし、思考と同様かどれ以上の消耗を伴います。したがって、実利のある思考というものは、実利に結びつきやすい行動を起こすことのできる思考であるといえます。

ではそれはどのような思考なのか。ということを考える時に、その手がかりとして、逆にどのような思考が実利に結びつきにくいのか、ということを考えてみます。

一つは「過剰な思考」です。これは思考と実利を結びつけるための行動を起こすためのリソースを、食いつぶしてしまうほどの思考を指します。自分の人生や、人間のことについて深く洞察しようとするときは、やむを得ないかもしれませんが、ここではその領域についての思考は既に「悠長なもの」とされています。

もう一つは「誤った思考」です。もちろん「全てにおいて正しい思考」というものはあり得ないし、あるとしても私にできることではありませんので、これは「誤りすぎた思考」という表現のほうが正しいかもしれません。

では許容できる誤りと、許容できない誤りを分かつものはなんでしょうか。その基準は固定されているものではなさそうですが、その思考が招く行動によって判断されるものである気がします。たとえば思考に誤りがあっても、行動が成功し実利が発生するのであれば、少なくとも短期的にはその誤りは許容されたことになります。

さらに、「許容できる誤りと、許容できない誤り」という判定は、誤った思考のみならず、誤った行動についても適用できるものです。(同様に行動からは結果が生じるので、許容できる結果と、許容できない結果を生み出しますが、思考にとっては行動が結果となるため、行動の結果については割愛します)。

すると、行動全体の規模を縮小すること、つまり「誤りがあったとしても許容できる行動」に限定することの有効性が見えてきます。それに応じて思考の規模を縮小をすることは、前述の「過剰な思考」を食い止めるための方策にもなり得ます。

小さく考え、小さく行動する。逆説的にそのことが、実利を生む思考の条件になるのかもしれません。
ただ、問題は何をもって思考の規模とみなすのか。この場合の「小さい」とは何か(あまり考えないことなのか?思考の抽象度の低さか?)ということについては、考える余地があるという気がします。