今朝考えていたことをもう一度振り返る「快楽の兵站」

 僕はゲームが好きで、必要以上の時間を費やしてしまうのだけど、それと同様に、自分で決めた日課を「必要以上にやってしまう」ことがないのは、どうしてだろうと思った。

 

 そこまでやるのが嫌なことは、一つも無いはずで、だけど時々腰が重くなる。特に昼食後や、夕方ごろになると、もう何もしたくない。それこそゲーム以外は何もしたくない。という状態になる。 

 ゲームとそれ以外の行動を区別する要素には、「快楽の約束され具合」というのがあると思う。ゲームはプレイすれば、間違いなく得られる快楽がある。他の日課にもそれがないわけではないが、必ずしもゲームと同等の快楽が、発生するわけではない。

 もう一つは「それをするためのコスト」が違う。ゲームは頭の使い方が限定的で、省エネですらある。他の日課は、今まで自分が支払ってきたコストを、可能な範囲で拡大していく傾向がある。慣れるとゲームと同じような、頭の省エネが実現するのだけど、そこにたどり着くまでがずいぶん長い。

 快楽が間違いなく得られるし、そのためのコストも低い。となれば、易きに流れるのは当然だ。ただ、5時間もやるならそのうち1時間でも、他のことに使うことで、将来に対する不安や、喫緊の問題の苦痛が緩和されるはずなのだ。

 不安の解消。苦痛の緩和。それらの「快楽は約束されている」し、回避したい事態の深刻さと恐怖に比べれば、日課や、やるべきことを率先してやる「コストは低い」はずなのだ。

 なのにやろうとしない。理論上は、やらなくてはと決意する必要すらなく、ただそれを欲望して、喜々としてやるはずのものなのに、そうならない。それはどうしてだろう?

 

 僕の理性が、僕自身に信用されていないということはあるかもしれない。今導き出したこの理屈にも、何らかの欠陥があるということを、直観が見抜いている。この方向性では駄目だ。ただし、どこが駄目かは言えない。という理不尽な通告を受けているような気が、しなくもない。

 もしも、ゲームのように音と光で装飾されれば日課ができるのであれば、そういうアプリか何かを作ればいい。しかし、そのための勉強をも、ゲームに優先させることができない。コストがかかりすぎるからだ。コストとは、退屈と苦痛、徒労感と無力感だ。

 そこには手がかりとなる快楽がない。兵站のない進軍のようなもので、どうなるかは火を見るより明らかだ。と自分で書いてみて、「兵站」という概念はもしかしたら面白いものかもしれないと思った。「快楽の兵站」とでもいうものを、しかし多くの人たちがそれを「タスク管理」と呼んで、もう十分以上に論じてきたのではなかったか。

 

 自分自身の進軍について、その兵站を考えることは、自分自身が最も適していると思いたい(もちろん、対価を支払って他人に依頼する方法もなくはないけど)。今はマインドマップ的に配置された自らのタスクに対して、「進軍」していくための「兵站」というアイデアが出てきたのが嬉しい。これが、このようなブレストのもつ快楽である。

 ゲームのようにきらびやかで、しかし腹に重く響くような、こうした快楽を、もっと獲得し続けることができれば、あるいは日課も狂喜のうちに行われるものになるのかもしれない。