幸福と快楽と陶酔と興奮が違う
物質と機会に恵まれて「幸福」
それを行使すること、あるいは行使しないことを選べることの「快楽」
実際の行使にともなう忘我の境地としての「陶酔」
そのいずれとも区別される「興奮」
この4点について、充分に満たされているかをチェックする必要があって、特に、最後の「興奮」が他のものと区別されるということに、最近ようやく気がついてきた。
この「興奮」というのはある一定の条件において発生する「しびれ」のようなもので、これが無いと、どんなに「幸福」で「快楽」や「陶酔」があっても、虚しい。
(特に「陶酔」との区別をここで強調すると、「陶酔」にはしびれや高ぶりが無く、体が全自動で動いている感覚が強い。)
そのため、他のものを犠牲にしてまでこれを求めようとする心の働きがある。さらには、他のものを犠牲にしている、ということ自体が、「興奮」の発生の条件に含まれる場合すらある。
例えば、「幸福」と引き換えの「浪費」、「快楽」を取り戻そうとする「怒り」、陶酔と対なす「焦燥」が考えられる。もちろん、「興奮」はこれらに限ったものではない。
そこで自分の性質や置かれた環境を鑑み、選択可能な「興奮」の手段を獲得することが必要である。僕はその手段として、「少額寄付」を試したい。
僕は疫病神であるけども、お金に色はつかない。他者としての関係性を結ばずに、価値だけを提供できることを考えて、それを実践するとき、どういうわけか勝負を決めるゴールのような、もしくは何かから必死で逃げ惑う時のような、「興奮」を感じる。
頭がおかしいので、こういう仕様のバグがある。それを利用して、自分の「幸福」「快楽」「陶酔」を保護したい。
しかし、まともな収入がなくては数百円の規模を超えることができない。それでは興奮はやがて生じなくなるだろう。結局は収入の低さが重く、課題としてのしかかってくる。就労であろうが、個人での受託業務であろうが、自分が提供できる価値というものが、存在する前提で行動できない。
ともかく、「興奮管理」とでも言うようなものが必要であるかもしれないという、突飛なアイデアを試すばかりである。次の問題は次に考える。