世界に不参加であるための読書

 今日はずっと一つの本を読んでいた。自宅に引きこもっていたわけではなくて、奥さんの買い物に付き添って、運転もしてもらって、買い物中も、どこかベンチのようなところに座って、終始イヤホンで音楽を聴きながら読んでいた。

 景色と状況が移り変わっていく中を、ずっと一つの本を読んで、しかも外部の音を遮断し続けるという行為は、その場に居つつ居ないような、かなり理想的な精神状態でいられる方法の一つである。

 自分の世界に没入するということだけではなく、その場から乖離しているという状況が必要で、小さな穴から書かれた文字だけを追って、それ以外の余白をすべて幻覚で埋め尽くすような気分でいられるということには、弾けるように鮮烈なものでは無いけれど、穏やかでうららかな喜びがある。

 おかげで読み終えてしまった。久しぶりにそういう時間を過ごしたことで、必ずしも作品している時だけが、良い状態とは限らないのだということを思い出した。

 本の内容から連想して、架空の人物と対話するという子供じみたこともしてしまう。彼らは存在していないことを自覚していて、したがって幽霊なので、僕はそういう相手とであれば朗らかに楽しく対話を続けることができる。

 読書の時や、食事の時に関係ない遠くをぼんやり眺めてしまうクセがあるのは、そういう対話や、その舞台を想定している時である。実際にあるはずの視覚情報は遮断されて、しかし目をつぶってしまうと思考が飛散してしまうので、目をつぶっているよりも何も見えない状態であろうとしているのが、あさっての方向を見ている時の自分である。

 


 本やメディアを通じて、素晴らしい人、行動力や正しい判断力を持っている人、他の人のできないことができる人、そういう人たちが、社会や世界に立ち向かっていく様を脇から眺めて、なんて自分は死んだ方がいいのだろうと思う。控えめに言っても、いなくていい自分は、その生存に多大なコストをかけている時点で恥ずかしい。

 かれらは必死で生きて、必死で考えて、必死で戦っている。僕はそれができないばかりでなく、何ら価値を生み出すことも、意味のある行動をとることもできない。そういう人間が、限られた資源の一部を食い潰すことを、このまま野放しにしていいのだろうかと思ってしまう。

 素晴らしい人の素晴らしい話を知るほど、あるいは素晴らしい人にも情けない一面があると知った時でさえ、自分がいかに生きているべきではないかを思い知らされる。僕は僕自身の悪徳を補えるだけの能力も信念もない。ただマイナスをもたらすだけの存在である。

 


 しかし、その事実は、読書による陶酔を一切損ねない。マイナスの大部分は他者との関係性において発生する。世界に出現しても参加しきってはいない状態、かえって僕のほうが「いるのにいない」幻と化している状態の時、僕が食い潰す資源は世界にとって誤差でしかない。

 他人の眼前に世界の参加者として現れることが問題なのだ。それも肉体をもった生命の一個体として、社会に参加するための言語を振り回す段階において、存在の暴力が発生し、何らかの貴重なものを絶えず破壊し続ける厄災の先触れと化すことを、経験から、同時に先験的に、回避しなければならないというか、回避することが、僕のやりたいことである。

 それを実現させながら、しかし持続可能な生活をしていくこと。まったく希望の光のない、しかし別の光、弱々しい明け暮れの光だけは残ったうす暗がりの道を、それもできるだけ人っ気のない道を選んで生きていきたい。

 そのための作品づくりと、あるいは作品づくり以外の陶酔的行為である。そのいずれかにのめり込んでいるうちは、僕は自分の厄災的性格を忘れることができて、まさにそのことが厄災そのものを抑制することにつながると思っている。