理想の生活に向けて

 三連休が始まり、いつも通りの時間に起きてみたもの、体調すぐれず昼まで何もできず、スケッチだけ済ませて散歩をする。


 何となく川の方へ行くと、散歩・ジョギングその他で出ている人たちが多いことに気づく。

 うららかに靄のかかった空の下で、ぼんやり暖められた草やアスファルトの上を歩いていると、間違って死後の世界に来たような心持ちになる。自分の通っていた小学校や高校のあたりも通ったので、ゆるやかな走馬灯という気もしなくもない。

 

 今日までに何も成し遂げることができなかった人間が、突然姿を消したところで、特別なことは何も起こらないと思う。

 それでも意地汚く生き残っているのは、逆に、いつでもいなくなることができるからだ。

 何をしても何の意味もないのだから、何をしたっていい。

 

 

 何かをするまで、何もやる気が出ないのであれば、一生何もすることができない。

 そこには、「何かをしていないが、している」という状態を経由する必要がある。

 これから何かをする、と宣言することは、その状態を発生させる手段の一つだ。

 ツイッターのタイムラインを見ないようにして数日経った今でも、自分が何をしていて、これから何をするのかについて書くことには意味があると思っている。

 無論、そのことで何かができたとして、それが何の足しになるわけでもないのだけれど。

 

 今日までに頑張って何かをしたことが、ことごとく全て失敗か無意味な結果に終わったことによって、

 もう一生なにかを頑張るということができなくなってしまった。

 全てのことは、気が向いた時、気が向いた分だけ、気が向いたようにやる。

 そのような志では、当然まともに生きていくことはできないだろう。

 かといって、何もかもを失敗する人間に、まともに生きていく手立てなど、初めから無かったのだった。
 

 

 軽薄なニヒリズムが対人関係に良い影響を及ぼすはずもなく、したがってその事が隠遁への道を舗装する。
 しかし、このユビキタスの時代においては、他者との直接的な関わりを最小限にして、生きていくことができないだろうか。 
 それがたとえどんなに邪道であったとしても構わない。

 

 広告収入、投げ銭、何らかの自動化ツール、そういうものを組み合わせて、人と直接的なやり取りをせずに生きていきたい。
 それはおそらく、創作活動のようなことではなくて、なんとなく無機質なものであるように思える。
 どうせその試みも失敗してしまうのだろうけど、それはつまり、失敗してもよいことであればできる。ということだ。