ゲームが大好きなことについて

 大抵ハースストーンだとかを、何かのきっかけでやり始めてしまうと、数時間が溶ける。

 

 しかし、ゲームそのものがしたいのではなくて、ゲームによる一時的な快感や、架空の達成感を、実生活でこそ獲得したいのだ。と自分では分析している。

 

 ゲームのように「よく考えられ、それをする(させる)ことを目的としている」ものと同等の気分を得ようとするには、そうでないものに対して、「よく考え、それをすることを目的とする」ことが求められる。

 

 これは、「快楽は訓練によって得られる」という言説に通じるのだけど、その効果を維持するために、毎度の訓練を開始するコストが、自分にとって高すぎる。

 

 朝、起き抜けに、意識も朦朧としているうちに日課を始めるということは、これは数ヶ月継続出来ている(今日はダメでしたが)。開始時の心的障壁を、意識の混濁によって回避・無効化しようというのは、塔の壁に頭をうちつけることで塔に侵入する、安部公房の短編の場面を思わせる。

 

 それとは別の方法として、真空のように、無為な状態を作るということがある。あまりに何もしたいことが無さすぎて、何をするにも抵抗感がなくなるというものである。

 

 ただし、真空を維持することが難しいように、その状態に近づくことが、先述のゲームであるとか、SNSへの脱線への誘導にもなりかねない。

 

 大掛かりなゲームアプリは、一度消すとインストールに10分ほどかかる。このことが、ゲームに対する開始障壁となる。日中はそれによって少なくともゲームへの脱線は防ぐことができている。

 

 逆に、その日の日課をクリアできれば、何の後ろめたさもなくゲームに興じることができるのだが、後ろめたさを感じながらゲームをする背徳的快楽があったり、「報酬としての快楽」というものへの自制心が極端に弱いので、あまり良い方策ではないようだ。自分のルールを捻じ曲げてでも、報酬そのものを「強奪」してしまう事態がままある。

 

 現実に対する責任が限定的であるということもゲームの魅力ではある。これが金銭の関わるギャンブル的なものであれば、本気で取り組んでいる人たちの養分になるしかない。そもそも、ものごとに真剣に打ち込むという先天的な能力の欠如がある以上、他者との競争は出来る限り避けなくてはいけない。それ以前に、他者との関わりそのものを避けなければいけないのであった。