いま、何であればできるか

例えば、何もしようという気になれないからという理由で、このように文章を書きつけるということ。
そこに何も期待できないけれど、自分の周りの変化を制御しようとする一つの働きではある。
やらなくてはいけないこと、やったほうがいいこと、それぞれ山ほどある。
しかしそれらをやりたくない。むしろやってはいけないと感じてしまうのは、悪いことだけではないようにも思われる。
Twitterを眺めていれば、ものを考えたり意見を言おうとするためのきっかけを、いくつか見つけることができるけれど、
それは果たして今、自分がやりたいことかというと、別にそうでもないし、どこか他人事ばかりだ。

読みたくて揃えた本棚から、自分で毎日やると決めたタスクの一覧表から、目をそらしたい気持ち。
元々自分にできることなんて、ほとんど何もないと分かっているのに、何度も期待し過ぎてしまう。
その過度の期待と、未来の自分による裏切りが、生活の大部分を占めてしまうばかりで
人に何かを提供するような境地にたどり着くことが出来ないでいる。

自分の好きな本の内容を、もう一度読みながら打ち込んでいくということであればできる。
本棚の本を、1ページずつ読んでいくことなら、できる。
無意味なツイートが一つできる。
描きかけの絵を目の前に出すことができる。


何もしようという気になれない時は、少し解像度を上げて、できることを列挙することができる。
そこまでたどり着けば、このブレストの目的は達成されたことになる。