現況とこれからについて

 今自分がやろうとしていることが、相変わらず散漫としているので、ここでいったん整理して、今後の展望につなげていこうと思う。

 

 

 まず、毎朝スケッチを1点描く程度のことは、継続できている。問題は、その質と量を増やしたいと思っているにもかかわらず、実現出来ていないことである。

 さらに、写真等の模写だけではなくて、自作のイラストも毎日投稿したいと思っているが、これはどうも、毎日義務的にやると、つまらない作品ばかりになってしまうようだ。同様の現象がテキストにも生じてしまい、それが日記の投稿を辞めた理由だった。

 理想では、毎日、ただし義務的にではなく継続できればいいのだけれど、厳密には、どの分野においてもその事自体をやりたいと思ってやっているのではなく、「小さく、汚く、一人で、延々と」の原則に当てはまることだけが、かろうじて自分のできることであるから、それをやっているに過ぎない。という、身も蓋もない理屈が横たわっている。

 本当の理想を言えば、やらなければいけないことが、一つもない一生を送りたい。

 したがって、自分の根底には能力の醸成や価値と対価の発生を求める心がない。単に、その実現され得ない理想の代替案である時点で、全ての行動は体調や気分のムラに対抗できない。それがものごとを継続できない脆弱性の要因である。

 これはワガママかつ自由奔放であるかのように見えて、実際極めて不自由な状態である。自分の思い通りでなければ何もしたくない、ということの、あまりの融通の効かなさに、毎日昼過ぎまでには疲労困憊してしまうのだ。それも、ほとんど何もしていないか、「好きなこと」だけをしているはずなのに!

 


 努力そのものが先天的な能力であり、かつ自分に欠落している以上、習慣付けやルールによって半自動的に行動することを数年試したが、これも思うように行かなかった。なぜなら、決まったことは必ずしも、その瞬間にやりたいことではなく、その瞬間にやりたいことが優先されない限りは、全ての規則や仕組みは無効化されるという、暴力的な精神を常に抱えているためである。

 ただし、ここに介入可能な隙間があって、それは「やりたいこと」が何なのかという判定基準の曖昧さ、その振れ幅だ。やりたいことが、例えば常にあるわけではないのだから、その時には、次点として「別にやってもいいと思えること」を選択できる場合がある。その時「小さく、汚く、一人で、延々と」に属する行動は、いわば代表選手として抜擢される。

 そして、屈強な意志を持っているわけでもないので、当初乗り気でなかった行動も、作業興奮の効果によってある程度であれば進めることができるわけだ。もっとも、集中力も人並みにあるわけではないので、もって30分、早くて5分も経たないうちにできなくなる。「自分が何らかの行動を継続している」ということ自体が気に食わなくなって、「しなくていいこと」や、挙げ句には「してはいけないこと」に手を伸ばす。

 ここまでが自己分析である。この構造を、どのように破壊するか、あるいはどうやって、より良い別の構造にスライドさせていくかを、ずっとぼんやり考え続けている。

 

 


 現在、取り組んだり、取り組まなかったりしている分野(イラスト・音楽・テキスト・語学・プログラミング)に加えて、今年は何度も挫折してきた資格勉強の類を、再開したいと思っているのだけれど、正直うまくいく自信がない。

 一日の半分以上を「自由時間」として、何かをやりたい衝動に駆られればそれを最優先する。という一時しのぎの案を採用して3ヶ月過ごしてみたけれど、それでは能力の向上や成果を達成できないということが(当然ながら)明らかになった。それでいて、自分のやっていることの稚拙さと、ペースの遅さに苛立っているのだから世話がない。

 

 



 きっかけは何であれ、こんな風に我に返ったときには、必ず何か変化を起こしてまた日常に戻ろうと思ってたのだった。日報やツイートのまとめ、noteでのエッセイとは別に、毎日自分のしたことについて振り返る記事を作ることにしてもいいかもしれない。内容は大したものになりそうにないけれど、生活について振り返ること自体の効能というものがどうやら存在していて、それで一時期は毎日ブレストを投稿していたのだった。

 今までの失敗を活かして、大仰なものは作ろうとせず、雑でもいいから手を動かして、決して他人に関わらず、続けていけたらと思う。そういえば、それこそが「小さく、汚く、一人で、延々と」というモットーだったはずだ。