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私が興味のある分野は、テキスト・イラスト・音楽です。しかし、それらを体系的に学習しようとは思えません。

本当に強い興味があるのであれば、手段を選ばず打ち込むことができるはずなのですが、これは分野に対するものではなくて、生きることそのものに対する、興味の希薄さであるかもしれません。

一方で、それらに対する情熱と比べると、極めて強い意志を維持できている分野が一つだけあります。

それはタスク管理です。自分がやろうと思った(しかし一心不乱にはなれない)ことを、どうすれば実行し続けられるのか。そのための設備と環境を、どう維持していくかについてであれば、勉強も苦になりません。

すると、「生きることそのものに対する興味の希薄さ」というのは、やや言い過ぎで、単に興味と適性が、仕事や作品に結びつきづらい。あるいは、仕事や作品に対して距離がある。という言い方のほうが正しいのかもしれません。

子供の頃から、自分がやるべきことをリストアップして、それをどうやっていくのか。ということを考えているのが好きでした。

正確には、自分がやりたいと思ったことを全てできる人間になっているということを、夢想し続けていた子供でした。

それが今日までに、何の成果にも結びつかなかったのは、夢想するだけで満足してしまっていたためでしょう。夢想と現実の乖離が、さらなる逃避を招いてしまった。ということもあるかもしれません。

最近ようやくわかってきたのは、夢想は大いに結構。そこから行動して失敗するのも当たり前。ただし、それらを振り返ることが抜けてはいけないし、また振り返ることを欲求すること。振り返ることに快感を感じるようになる必要がある。ということです。

また、自分のログに限らず、浮かんだアイデアや他人の言葉で印象に残ったものなどについても、できるだけ全て収集してログに落とし込むということも(快楽として)欠かせないことだということも、うすうすは気づいていたのですが、ようやく実行に移すことができるようになってきました。

もちろん、こういった方向性や具体的な手法とツールの組み合わせというものには汎用性がなく、あくまで私専用のシステムを構築しなければいけないのですが、この「私専用のシステム」というものに対しても、計り知れない魅力を感じてしまいます。

その分、他人や社会に対する意識が、自分でも驚くくらい無いので、希薄なのは人生に対する興味ではなくて、自分以外の何かに対する興味であると言えます。

そうなると、どこまでを自分とするのか。あるいはどこまでを自分の関わるシステムとみなすのか。ということが問題になってきます。自分専用の極めて小さなシステム(それは個人単位の「社会」なのかもしれません)をチューンアップさせ続けることが、そのうちにもっと大きなシステムに繋がるということがあっても構わないし、私が一般的な社会に接続しなおす手段が残されているのだとしたら、おそらくそこだと思っています。