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何かをしなければいけないと思ってやることができません。単純にそのことをしたいと、欲求するのでなくては、あるいは、せずにはいられないほどの「したさ」になるまでは、手をつけることができません。

しかし、それほどの「したさ」が生じるのは着手した後である。という通説も事実であると思います。ここでは「したさ」の強さとは別のちからの働きがり、その抵抗をどのように取り払うか、ということを考えたほうが経験的にも良さそうです。

ではその抵抗感、「したくなさ」はどこから来るのか。主なものは肉体的なコンディションの不和であり、何かをしたいと思うためには、まずそれをケアする必要があります。睡眠と栄養を十分にとり、適度な運動を欠かさず、姿勢と呼吸を整えると、その翌日あたりからは健全に何かを「したい」と思えます。

しかし大きな抵抗感はそれだけではありません。退屈さが発生するという予測、あるいは得られると思っていた快楽が得られなかった時の、失望が発生するという予測が、私に「危険なことはやめろ」とブレーキをかけてきます。

単純作業ならまだしも、学習や作品などの思考を巡らす行為というものは、数時間も集中できるものではありません。したがって極めて小さい単位のタスクに分解し、数日に渡ってそれを消化していくのですが、持続可能な程度に分解されたタスクというものには、控えめにいって退屈であるとか、少なくとも興奮を約束してくれるほどの新奇性がないという場合がほとんどです。

そういった刺激を求めて、学習や作品とは別の行為へ「脱線」することを、単なる時間のロスとして忌避してきたのですが、小さな工夫の積み重ねの成果なのか、ほとんどそういった脱線を回避することに成功してみると、今度はもう何もしたくない。何かをするということ全体に対して、退屈が拡大されてしまった。という状態になってしまい、つくづく自分という人間はどうしようもないなと痛感します。

その反動で、アプリゲームを購入して朝まで10時間やってしまったので、何が「思考を巡らす行為というものは、数時間も集中できるものではありません」だよと思う一方で、そのように自分がのめり込むものと、そうでないものの違いについて考える良い機会なのではないかと前向きに考えることにしました。

まず考えられるのが、コストと成果の著しい乖離であると思います。だいたい指先一つで敵を蹂躙できるというような快感は、現実世界にはあり得ません(あんまりあって欲しくもないですが)。

そのような見立て上の成果に限らず、単にキャラが動き音がなるということの快感も生じます。私はこれに滅法弱く、おそらくパチンコなどを始めてしまうと人生を(さらに)棒に振ることになると思います。

であれば、日課についても、ゲームのように音と光による演出があればいいのではないか、と思ってしまいます。今の所、そういったツールは一般的にはなっていないようなので、そういった「やかましい」テキストエディタやタスク管理ツールを自作することが、私のプログラミングを勉強することのモチベーションになっています。