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時間帯によってできる作業の種類が違うということを感じます。
テキストは朝から午前中にかけて、昼食と同時に語学をやって、イラスト、夕方からプログラミングと読書や映画鑑賞、夕食後に楽器の練習。という生活を送りたいのですが、これだと生計が成り立たないので、夕方の時間で在宅ワークをすることになるでしょう。
体力も気力もないので、毎日というわけにはいかなくても、できるだけこのスケジュールで過ごすことができたらと思います。
それで何になりたいということもありません。結果は行為そのもので達成されます。私はできるだけ、自分の気が向いたことをし続けるだけで生きていきたい。そこに客観的な価値がなくても成り立つ生活というものを考えています。しかし、そのことにさえ真剣にはなれないので、気が向いたときだけ考えます。
このようにワガママで怠惰であるということは、なんら自由ではありません。自分の気分のムラにがんがらじめに縛られているからです。その束縛からの解放を求めるために、別の束縛を求めるということもくだらないので、せめて何に縛られるかを自分で選択していたいと思って、自分の気分のムラに縛られています。
ともかく、目指す生活は暫定的に定まってきたので、今度はそれを阻害している要因を取り除くことを考えなくてはいけませんが、その主なものは生来の気力と体力の無さであるため、ほぼ絶望的な戦いを強いられることになりそうです。
他の部分の消耗を抑えるという方策は有効であるように思われます。どこで消耗しているかというと、睡眠の浅さと生活の不安が最も大きいでしょう。睡眠の浅さは晩酌を導入することで、生活の不安は在宅ワークの再開で緩衝されるとしても、十分ではないと予想されます。
なぜなら晩酌は経費の増大を、在宅ワークは消耗の増大を招くためです。これを一時的なものにするか、吸収しうるだけの利益を生み出すことができればいいのですが、これまでの経験から、その企みが滞りなく進むとは思えません。
SNSのタイムラインを見ないようにするというのは良い案でした。案が良いか悪いかというのは、継続できているかによって判断できます。他人と関わりたくない人間が、他人の営みを観察すること、特に社会的な話題について知ろうとする態度には矛盾があります。何によってダメージを受けているのかによってその点は変わってくるのかもしれませんが、私は他人の意見や感情を見聞きすること自体に、火のつくような嫌悪があるので、したがってその坩堝であるタイムラインを忌避するというのは自然なことでした。
同様に他人からの連絡も僅少に維持することも効果があります。文字や音声による干渉は私の精神を著しく汚濁します。それでもまったく受け付けないとうことはないので、その分を、業務的な事柄に割り振ることができますが、祖霊所うのことはできるだけ回避し続けます。
今「気が向いている」ことは、自分の世界の純度を高めること、そのための可能な範囲での設備投資を行うことです。それについては、もっと考えていきたいと思うことができます。他のことは、それに飽きた後でなくては一つもできません。