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かなり気が多い方で、しかも集中の続かない人間なので、どうやって自分を分担していくのかが常に課題となります。

ルーチンをある程度決めてはいるのですが、体調や気分によって、特に「決めたことを決してしたくない」という気持ちの時は、順序を飛ばしたり追加したりして一日を過ごします。

私は何かを達成したいのではなく、ひたすら忘我の状態を求めます。またそこにはある一定の厳密さがあり、ただ忘我しているだけでは忘我に至ることができないという潔癖さを持っています。そこには能力の向上だとか、成長というものが、たとえまやかしだとしても感じられなくてはなりません。

外国語がいくつも読めて、絵が描けて、文章が書けて、楽器が演奏できるようにならなくては、いざそれらを使って何かをしたいという時に出来ない。これは、社会から隔離して自分の世界に浸りたい自分にとっては死活問題です。

しかし、そういった自己実現に、真剣に取り組むこともまたできません。気力も体力も乏しいからです。何もしないで、あるいは何もしていないような負担の軽さで、語学もイラストも、テキストも音楽もプログラミングもできるようにならなくてはいけません。

その方法はおそらくあると思います。ここで考えている条件には「~したい」とか「~を感じたい」というような、主観的な要素がかなり強いためです。すると、行為と同等かそれ以上に、考え方を変えていくことの影響があると推測できるためです。

さいわい、私は欲求も強くありません。何かを強く求めても、それが長続きするということがありません。そのため相対的に惰性の力が強くなります。

現実的な進捗を犠牲にすれば、やりたいことを全てやりきって、余った時間で日課を消化するという手段が、欲求の弱さと惰性の力を活かした手段になります。もちろん、日課を「やりたい」のであれば優先してやれば良いし、「他に何もしたいことがない(し、気力と体力が余っている)」という状態をいかに早く実現させるか、ということになります。

朝か、前日の夜のうちにやりたいことをすべてやってしまう。それで、余った時間を価値のあることにあてる。この怠惰なやり方を、試していこうと思います。