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他人との関わりを絶って、自己の世界に耽溺するという振る舞いは、職人であるとか、芸術家だけのものではなければいいのに、と思います。またはそのような決めつけは、単なる私の偏見であって欲しいと思います。

専門的な技能や立場を取っていなくても、生来のものか、あるいは後天的な出来事によって、そのような態度を選択して生きていくことが可能になって欲しいです。社会がどうか、ということを唱えるのはおこがましいので、単に私がそのように生きていきたいと強く願っているだけのことです。

人を憎みたくないというだけでなく、どう考えても私の資質に問題があって、この10年を棒に振ってしまったので、

それを取り戻そうとするのではなくて、せめてここから先は同じことを繰り返さないように、他人との関わりを限定的にしていくと決めて生活しています。

その中で分かってきたことに(薄々感じてはいたのですが)、他人との関わりの無い生活を成立させるためには、甚大な能力が必要であるということがあり、この点において自分の持続可能な生活はかなり望み薄であるという結論がすでに出ています。

次点として、「協働」ということを回避さえできれば、連絡や報告に限っては、他人との関係を維持することはこれはやむを得ないのかな、という妥協をし始めています。現に家族とは関係を断たずにやってこれているし、人間が怖い、一言も話したくないという状況ではありません(ただしそのことが、「他人と協働できない」という性質が、病的な一過性のものではなくて、一生抱える困難さであるということを、逆説的に証明していることになっている気もしますが)。

現時点では、ほとんど全ての問題が金銭的なもの、生計についてのものに集約されています。逆に、ここを解決できればあとの些事には目をつぶって、何とか隠遁生活を送ることが可能そうだということです。

自分の好きなことをして、あるいは楽をして対価を稼ごうということは望んでもできることではありません。そういった志向以前に、私にできることが壊滅的に限定されており、さらにその残された「できること」も「できる」に値しないことしかないということが、今までの経験上から明らかになっており、さらにこれ以上の成長が見込めないという始末です。

しかし、私がそう思い込んでいるだけ、という可能性も否定できません。かつ、そう思い込んでいることの実害が大きいからといって、そう思い込むことを止めることもできません。それを止めてしまうと、また同じような失敗、疫病神としての悪徳をばら撒いてしまうためです。私は私であることの厄災を、私の可能性ごと食い止めなくてはいけません。

などと嘯きながら、気の向いたことをし続けては過ごせていられるわけです。ずっと寝床で泣きながら自分を呪い続けるということは、かえって自分と真摯に向き合っている態度にあたるため、そのような真面目さ、真っ当さを持っていない私にできることではありません。