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一個人が考えられることは限られていて、私の場合はとくに限られていると感じます。


自分が見落としているだけで、金銭的なものも含めて、なんとかしていく手がかりのようなものはあるはずです。それを思いつくことができないのであれば、「思いつくことができないことを思いつく」方法が必要になります。


あるいは方法自体は正解でも、それを成立させるだけの前提が満たされていないために、頓挫するということもありました。その場合は、「方法を成り立たせる方法」が必要だったということなのでしょう。

何をしても何の意味も無かったし、自分の中に残ったものはマイナスのことだけだったという私の人生ですが、引き続き生きていくことを選択せざるを得ないのであれば、手がかりになるのはそのガラクタの山に他なりません。

何もないところにハシゴをかけては、それに登ろうとして落下するということを繰り返す。その繰り返しのバリエーションを考えていくうちに、ではハシゴではたどり着けず、ハシゴ以外のものでたどり着ける場所があるとしたら、それはどんなものでたどり着けるどんな場所なのか、ということまでを考えて、バリエーションそのもののバリエーションを広げていく必要に迫られる局面が訪れます。

そのような高次の思考を可能にするものは、健康と余裕です。私はこの一年に限っては、生活の見通しを犠牲にして、健康と余裕を無理やりに生産することを選びました。半年が経とうとして、未だその成果はありません。