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作品行為そのものに、ゲームやポルノ、ギャンブルによって発生するような興奮を見出すことができれば、一石二鳥なのではと思うのですが、

その考え方について、自分の欲求を高次のものとして捉えすぎているような懸念があります。

もっと自分の興奮はつまびらかにしたいと思えない、下卑たものであるはずです。

もちろん、興奮というものが下卑ているというのではなくて、その興奮を生じる人間の卑しさに由来しているに過ぎないのですが、

そこを取り違えると、肝心の忘我というものが失われてしまう危険があります。

無為に過ごすことができないのは、無為がもっとも忘我から離れている態度であるためです。

今、ここにいる自分が、最も苦しいのは、意識があるからです。記憶や不安というものは、今と呼ばれる時間帯に含まれていない分、その苦しみが若干和らいでいます。

ポルノ的興奮、ギャンブル的興奮は忘我からの反動が著しく、作品行為は逆に忘我の余韻を残します。

その最後のよすがを反故にしてしまうかもしれないものが、興奮でもあるのです。

したがって、作品行為と興奮を短絡的に結びつけることに、危惧があるということを認めます。