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自分の考えていること、というと高尚すぎるので、自分の頭に浮かんだ言葉を、無責任に記録しつづけることには、間違いなく快楽があります。

そうでなくてはこんな風に作文することもできないからです。何かのテーマを与えられてそれについて論じるということではなくて、連想に任せてそれらを、文章めいたものにしようとすることに、どうして快楽が生じるのか、いまいちよく分かりません。

「誰も分かってくれない」ということは作品することの初期衝動の一つではありましたが、それは別に作品することによって解消されるものではなくて、むしろ作品することで強化される種類の欠乏感でした。

今は、誰も分かってくれなくても良い。それどころか、ぜひ勘違いをしてほしい。と思います。まず、何かを思われたり、意味を見出されるということ自体が(それが嫌悪感であったとしても)、貴重であるということと、作者と鑑賞者のコミュニケーションなんかよりも、鑑賞者が自分の解釈を持つことのほうが、私にとってはかけがえのないことであると感じられるためです。


すると、他人が何らかの勘違いを起こすという余地を持ったものを、自ら作り出すということの快楽が認められるかもしれません。秘密工作の快楽、いたずらの快楽です。

そうして生み出されたものは、作者である私のくだらない存在を、はるかに凌駕した装置になる可能性を孕んでいます。もっというと、それが私の作ったものでありながら私自身ではない。という時点で、既に私よりも素晴らしくて、尊いものであると私はみなします。

私よりも素晴らしくて、尊いものと関係性をもつ唯一の手段としての作文であり、作品行為であると考えれば、そこにあるのは快楽というよりも、お祈りに近いものであるかもしれません。

私はもっとまともな人間になりたかった。まともな能力を持つ人間でいたかった。こんなに人を悲しませたり、落胆させたり、苦しませたりすることしかできない人間になりたくはありませんでした。

私はもう完全にダメですが、「私から生まれた私ではないもの」であれば、あるいは私よりはマシなものになるかもしれない。なぜならそれらが無意味であったとしても、マイナスである私よりは良い存在になるからです。そうしたものとつながりを感じることができたら。どうか感じることができますように。そういう種類のお祈りです。