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負荷がかかりすぎて生活が立ち行かなくなった。ということが前回のブレストを終了した理由でしたが、今回は開始3日目にしてその傾向が強く、はやくも日課諸々の進捗に悪影響が出ています。

しかし、このようなことは珍しいことではなくて、いつもはビデオゲームにのめり込んでいたものが、今は作文に取って代わられたに過ぎません。

いつでも予定というものを守れた試しはなく、それどころか、背徳的な快楽抜きに、やるべきことに着手することが難しいとすら思うようになってしまいました。

もし能力があれば、理想的な進捗を維持できるか、あるいは維持できないとしても、短期的な集中力で全ての辻褄を合わせられるのですが、いかんせんそのような一般的な水準を満たすことができません。

無気力に、惰性で、本来やるべきことを無視しながら、誰にも頼まれていない無駄なことをやっています。そうでないと、何もできないからです。

それならいっそのこと、何もしないほうが負担もないし、やるべきことに着手するチャンスも増えるのではないかと思い、全ての日課を中止して、ただ気の向くままに過ごしていた時期もあったのですが、

それだと、もっとまずい事態が起こってしまうということが明らかになったのでした。それは他人に関わろうとするということです。

私は他人との関わりを忌避し、できるだけ一人の世界に没入することを心から望んでいるはずの人間なのですが、何もしなくていい上に、何もする気にならないという状態が一定以上続くと、刺激や興奮を求めずにいられない性分なのか、余計なことのうちもっとも余計なことに手を伸ばしてしまうのです。

当然、その結果自他を傷つけて、もう二度と同じ思いをしないよう自らを律するのですが、「自らを律する」ということほど、私にとって無意味なことはありません。同じような過ちを重ねていくうちに、もう救いようのない状態に陥ってしまいました。

そこで、最も回避するべきこと(他人と関わること)以外の、それよりはまだマシな、しかし間違いなく「余計なこと」であることで時間を潰す、という方策を取るようになりました。それが忘我を伴う作品行為です。

「しなくても良いことなのに、それどころかしないほうが良いことであるにも関わらず、やらずにはいられない」という状態を作り出すことができれば、一種の逃避にも近い忘我を実現することができます。

そのためには、「『しなくても良いことなのに、それどころかしないほうが良いことであるにも関わらず、やらずにはいられない』ことであるかのようにやる」ということが手段として有効であるということが分かってきました。