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物語を抱えるだけの力を持つことのできない人間について、語る者がいなければまだ良い方で、数行にその存在を簡略化されてしまうことについて、人間の知性がいかに存在に及ばないかということを考えます。

逆に、ある調律が奇跡的に実現すると、まるでその人が存在していないか、存在している・していないとは別の、記述不可能の状態に突入するということがあります。私はそれを直接確認できたことは(存在しているのでも、していないのでもないので当然)無いのですが、その点滅の痕跡のようなものを幻視することがあります。

人間のルールの拡大は、単に存在することのできる人間の人数によって成されるとして、その数に既に鬼籍へ入った人々の分も足すと、人類の進歩とは因果関係の爆発的な複雑化そのものである。という発想は、おそらくオーソドックスなSFなどで考察されているところでしょう。

ある段階にたどり着いた時、私たちの功罪がすべて白日の下にさらされて、絶対的な審判が下されるという物語や、あるいはもっとシンプルな世界崩壊譚でもいいのですが、そういうものが、ただ一点見逃しているか、意図的に語っていないもののうちに「速度」というものがあると思います。

筒井康隆の極掌編に「落下」というものがあったのを思い出すのですが、世界には絶対的な審判が下されて、同時に崩壊もする、ということは、ある観点からは真理であると思います(「ある視点」というものを無限に捏造できるという点からも)。

世界は既に審判中であり、また崩壊中である。ただし、その「速度」が人間にとっては極端に遅い。という言い回しが、なにか考え方として一番しっくりくるのです。もちろん、これは私の独自のアイデアなどではなくて、同じようなことを言う人を時折見かけているためです。

思えば、人間そのものが、生物として発生した瞬間か、あるいはそれ以前から、審判と崩壊を開始されているとも言える。すると人生は何らかの比喩であるよりもいっそう本格的に、保留中の暇つぶしであるとも言えます。

しかし、一般的に想起される暇つぶしとは異なる点として、その暇の潰し方によって、保留期間の長短が変化するということや、同じ部屋の囚人たちとお互いに影響しあう度合いがあまりにも強すぎるということが挙げられるでしょう。

すると人間は、その審判中の振る舞いによって審判され、またその崩壊中の振る舞いによって崩壊していく。ということが言えるかもしれません。このことが、いったい何を意味していることになるのでしょうか。

「罪を負い、裁かれて滅びることが、人間の発生そのものである」というのは、論理的能力の欠如による、不適合な表現であることは承知の上で、そのあたりに何か重要なものがまだ隠れているような気がします。

ただ学が無いだけで、社会全体はもっと先の問題に取り掛かっているのだと思うのですが、ここが今私の個人として抱える、問いと物語の限界であると思うと、随分チープでくだらない人間もいたものだ。という気がしてきます。