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何をしても無駄で、何をしても意味がないのであれば、それを大量にやろうとすることも、意味がないはずです。

遠い宇宙で超規模的に発生している現象が、私たちの世界における極最小の物質現象を紐解く鍵になるように、私は一見無意味と思われることを、しかも必要以上どころか、生活に支障をきたすほどの膨大さで実行したい。そういうことにだけ、興味があります。

一日のうち、自分のことに割り当てることのできる時間は(主に健康上の理由で)極端に限られており、さらに意志が薄弱なことから、「大量」「膨大」などとうそぶいても、実際のところは大したことがなく、テキストに関わる仕事をしている人たちから見れば、何かをしていることに値しない程度の質と量であることは分かっています。

それでも、それをやらずにはおられません。ある一定の負荷を自分にかけ続けることが、フロー状態と呼ばれる忘我を引き起こすために必須の条件であるためです。

「やらなくていいことを、やらずにはいられないのでやる。それも他のことを犠牲にして」ということでしか、私は我を忘れることができず、これはどこか性癖のようなものであると感じています。

そしてその分野において、単発の依頼を受けることがありますが、これは依頼という形になった途端、「やらなくていいこと」という条件が欠落するために、忘我を達成することにならず、したがって依頼に応じて作品を行うということが原理的に不可能だということになります。

そうした場合は、その依頼が依頼でありながら、しかし何らかの意味合いで「やらなくていいこと」である。とみなすことができれば、実行することが可能になる。という知見を得たことがありました。

例えば、締め切りを前倒しにすることは、「(まだ)やらなくていいこと」の条件を満たします。

求められたこと以上の範囲や内容を実現させようとすることは「(そこまで)やらなくていいこと」の条件を満たしますが、これは負荷が上がるのであまり出来た試しがありません。

あるいは、公募や企画に参加することは、「(私が)やらなくていいこと」にもなるのですが、これは自主的なコミュニケーションを必須とするので、よっぽど気分にムラがある時しか出来ません。

「やらなくていいこと」は総じて悪事である。という認識が、どこかにあるのかもしれません。この世を改善せず、時間と資源を無駄にする「悪事」のうち、他人との関わりを持たないものであれば、これが私の唯一できることである。ということでもあります。悪事は失敗しても、人知れず行われても、かわらず悪事であり、そのようなことだけが、行動というよりは事実として、私のできることです。