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落ちているものを拾いがちだったり、見知らぬ路地に入りたがったりする傾向があり、我ながら不用心というか、無防備であると思うことがあります。

なにか引き寄せられるものがある、というところまではいいとしても、それらに警戒心を抱きにくいということに問題があり、外出そのものが億劫でなかったら、どこまででもさまよい歩いてしまうので、不審者の誹りを免れません。

見かけがもうすこしマシだったらとも思います。端的にいって、鑑賞に耐えない容貌であることも、また他人の前に姿を現すことを回避する理由の一つです。

他人と会うことが嫌なのかというと、微妙に違います。他人と会うことは、負担でこそあれ、興奮と可能性の拡大という豊穣をもたらす機会であることを否定できません。

私が嫌なのは、そのような素晴らしい他人の前に、私が姿を表わすということ。特に、他人の目に自分が映るということの、恥ずかしさを通り越した不快感です。

文明の利器は対面せずに他人と連絡を行うことを可能にしてくれました。特に文字でのやり取りは、自分が人間であることを曖昧にしてくれるので好みです。

しかし、相手から送られてくる連絡も、当然文字になるので、省略された部分を誇大に推測してしまい、その後のやり取りに齟齬が生じることもあり、少なくとも著しく消耗してしまいます。

一番良いのは、他人と連絡を取らないで生きていくということです。が、私のために作られたわけではない社会が、私に都合のよいかたちに変容していくとは到底考えられません。

そこで、社会に対するこちら側の接し方を改めることによって、擬似的に、あるいは不完全な形で、望ましい社会との関わり方を組み立てる必要があります。

たとえば、私が人格として求められるのではなく、装置や機能、あるいは幸運そのものとして求められ、そこに対価が発生する。という構造です。

あるいは、私の代わりに作品が求められ、直接やりとりをすることなく、それらの対価を受け取ることができる構造です。

どちらの場合も、婉曲的ではあっても、ある種の「求められ」がなければならず、これが一体どうしたら実現できるのか、まったく分からない部分なのですが、

少なくとも、私がある傾向をもって存在してるということを、明らかにするということが最低条件となっているはずなので、その顕現として、人前に姿を表す代わりに作品し続けることが必要になってきます。

期待する程のものが無いとしても、そうして、ある方向(テキストやイラストなど)へ開かれていることを表明することについては、直接他人に向かって語りかけることをせずに、無人の看板を立て続けることによって可能です。

その一方で、そうして無機質に呼びかけ続けて、さらにそれを無視され続けるということに、何らかの調和を見出そうとしている節もあります。

私のやることは、ついぞ意味を成さなかった。少なくとも今日まで何の意味もなかったのだ。ということを何度も何度も確認することで、他人を通じて自分が不快感を覚えるような経験の自然発生を防いでいるという部分があります。

意味があったか、なかったか、ということに限らず、すべての他人との関わりに、私は深く傷つきました。他人に対する私自身の、間抜けで配慮を欠いた振る舞いに深く傷つきました。

当然それは相手に一切何の関係の無いことです。私は他人と関わる時の私を、忌み嫌っており、できる限り出会いたくないと思っています。