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余計なことをする心、いわゆる遊び心や好奇心というものが、あまりに肥大化しすぎてて、本来優先されるべきものを、追いやってしまうということがあります。

理性以前の脳の領域が、目の前のものに吸い付いていくような感覚で、いつもあれほど希求し続けていた「忘我」が、いともたやすく達成されてしまいます。

 補足:忘我においても論理的思考は可能である。しかしその内容が後には不明となっているので、忘我というのは主に記憶装置における麻痺なのかもしれない。

もちろん、それをやっているだけでは廃人になってしまうし、かつ飽きやすいので、段々と忘我の状態を保てなくなっていきます。

そこで、誘引されるのとは別の、自発的に忘我を起こす行動をとる必要があり、それが私にとっては作品することです。

難しいのは、作品することが、取り掛かるときに最大の抵抗感を生じるという点にあります。ほぼ忘我が約束されているにも関わらず、それを開始できない理由というものがあるとしたら
どのようなものが考えられるでしょうか。

一つは期待感に関わるものである気がします。何事にも期待せず、諦念をもって生きている人間としては最後の望みが、忘我を期待することです。

しかし、それは「ほぼ」約束されているものであって、外部からの介入による中断、身体的な故障による中断、そういったものが、その約束を反故にする場合があります。

そのことが憎いのです。自分でどうにもならないことが憎い。他のことはどうなってもいいと思っているのに、最後の聖域をも踏みにじる「どうにもならない」に烈しい怒りを覚えます。

その怒りの副産物、焼き尽くされた荒野のようなものが、作品することを開始する時の抵抗感に含まれているような気がします。

もう一つは、自分への失望です。仮に忘我が達成されたとしても、作品は作品であるゆえに、その結果物を生成します。それが自分にとって何らかの水準を満たすものではなかったというとき、

私は自分に失望します。これも、元々自分に何も期待していないからこそ、せめて自作のものには最低限の出来栄えを期待しているからです。

なにも社会を激変させるようなメッセージやインスピレーションを期待しているわけではありません。ただ、自分の中でなんとなく良し悪しがあって、大抵は妥協できるのですが、それすらも、認めることができない場合がある。こういったときの精神的な受傷は、先述の怒りに匹敵するもので、しかし烈しさはなく、酸で焼かれるような静かな苦痛です。

こういったものが、作品行為にはついてまわります。しかし、これ以上の忘我的行為を今の私は知りません。それに、何事もうまくいかない私にとっては、このようなことでも成功率が高い部類に入ります(あくまで作品の出来ではなくて忘我の達成率として)。

といった理由によって、苦悶のうめきを挙げながら、我を失う瞬間の連続を求めて、このような文章を作っている次第です。