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食事のあとに眠気が訪れるのは、どういうことなのか。それでも良いとして、では横になることが消化に悪いというのはどういうことか。

二足歩行を始めたという人類の「姿勢」に、消化器官がまだ対応していないのかもしれません。同様に、本来の意味で狩猟的に生きることを長く続けていた人類が、ここへ来て体力や血糖調節機能を持て余すことが、病気の原因を生み出す。ということもあるようです。

そうなると、私たち人間というのは現在も進化の途中で、しかし進化に途中も終わりもあるものだろうか。と考えてしまいます。

多様性というのは、私たちの存在可能性についての賭け事のようなもので、一昔前であれば社会の上位に陣取ることができた種類の人や、当時の環境では生きていくことすらままならなかった人が、それぞれの状況を逆転させるということも往々にしてあります。

現代社会、それもごく限られた世代において、私たちが個々として登場したことは事実です。しかしだからといって、その迎合が約束されているわけではありません。私たちを助けてくれるはずの大人たちも、自分が生き延びることに必死です。それはいつの時代も、そういうものなのかもしれません。

ここで私が言いたいのは、発生した私たちが、「失敗作」であったりだとか、「欠陥品」であるということは、構造上当然で、そこからどうやって辻褄を合わせていくかを考える時に、はじめてその齟齬を解消できるかもしれないということです。

私のように、何をやってもダメな人間は、ではどうやって生き延びることができるかを考えると、そこに「ダメでもいいことならできる」という答が一例として挙げられます。

また、どんな言葉をかけられても、自分が失敗した人間で、今すぐ死んだほうがいい人間だと思ってしまうのであれば、実際の行動としての失敗や欠陥よりも、その捉え方のほうが「失敗」あるいは「欠陥」であるわけで、

ではそのまま生きていくにはどうするかを考えると、そこから「失敗して死んだほうがいい人間として、しかし生きるという、悪事をはたらく」という答が一例として挙げられます。

それに、「何をしてもダメ」な人間に、自主的にできる悪事などその程度です。本格的な悪事をはたらくには、それこそ高度な能力と才能が求められます。

さらに究極的な悪事とは「悪いことをしない」ということです。人を責めず責められず、自分を責めず責められないという完全犯罪を達成するには、本人の性質だけではなく環境もかなり関わってきます。

それは夢物語だとしても、生きていくという悪事をより研ぎ澄まされたものにするために、悪いことをしないように工夫することが必要になります。

ただし、ここに意志の力は一切作用しないものと仮定します。揺るぎない信念をもって、自らを律することができるのであれば、その時点で既に悪人の才能がかなりあります。

そういうものを持たない人間にとっては、意志の代わりになるものが必要です。習慣や、補助具、あまり好ましくはありませんが、他人の助けも借りたほうが良い場合もあるでしょう。

生きている全ての人間が、罪を抱えているかどうか、などということはあまり興味がありません。問題は私の失敗と罪をどう生きることと結びつけるかということです。それゆえ、この文章も他者に向けてではなくて、将来的にこれを読み返すであろう私自身に対して作っているものに過ぎません。