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大病をしていないので、体は弱いほうではないはずなのですが、いかんせん不調を感じることが多いというか、意識のある時はいつも、体のどこかに違和感があります。

不調に敏感であることは、メンテナンスのためには良いことなのかもしれませんが、そのこと自体が目の前の作業を妨げることになっては本末転倒です。

最近は6割ぐらいの調子であれば良しとして、どこかしらが痛んで集中が途切れるのも、やむ無しと諦めてはいるのですが、30代でこの調子だと、この先まともに起き上がれるような好調の日というのは、徐々に減っていくのではないかという気がします。

成長の見込みがない人間にとっては、「変化」というのは総じて「劣化」であり、それは年齢に関わらず、もともと乏しい設備のさらなる摩耗です。

一日一日と、精神と肉体が衰えていくことは、死への恐怖よりは、むしろ生きること、死ぬまでの待機期間における、活動と快楽の質が低下することへの、悲しみと苛立ちをもたらします。

一方で、生き長らえることによって、苦痛への馴化も起こりうると思います。これが十分な程度なされるのであれば、実際にはひどい衰えようであるとしても、主観的には苦しみが和らいでいくのかもしれません。

「生きづらさ」についても、同様の馴化があります。学齢期から20代にかけては、ずっと死ぬか生きるかというような、無駄に熾烈な思考を延々と繰り返していたのですが、それも体力に由来するところが大きかったのでしょう。今は自分で自分の命を断つようなことはできません。倫理的な判断などではなくて、単に「そんな元気はない」ということに過ぎないのですが、自分にとっては大きな変化でした。

したがって、今後も恥を忍んで生きていくなかで、自分が決して逃れられないと思い込んでいる呪縛めいた自己暗示から、何かの拍子に抜け出せてしまう瞬間があるのかもしれません。

そんな時に、元の地獄へ安寧を求めて戻ろうとするのではなくて、新たな環境において、都合よくやっていけるような、足がかりとしての技術と知識を獲得しようともがくことであれば、これは欲することが可能です。つまり、具体的な行動の動機づけを強めることができるということになります。