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阿部和重グランド・フィナーレ」を読んで、贖罪ということについて考えました。

この物語で、贖罪が可能になるのは、個人の犯した罪が、その人間の能力と分離されうるためであると思いました。

あるいは、実際の能力に限らず、新たな関係者からの「期待」ということも、これも犯した罪についての情報が共有されていないことによって、初めて可能になることです。

したがって贖罪には「能力」と「関係性」が必要で、それらが「犯した罪」と分離されていなければならない(少なくともこの物語におけるものは)、ということになります。

すると、まともな「能力」を一切持つことができず、まともな「関係性」を持つこともできない私のような人間には、贖罪の余地がない。ということにもなります。

もちろん、その事実が、この本の主人公のような人の救済を、一切妨げることにはなりません。能力があり、関係性がある人たちには、全員贖罪を達成してほしいと思います。

それに、もし私の頭に流れ星が落下するかなにかして、「能力」や「関係性」を獲得できるような奇跡があれば、喜んで(それも「何も悪びれることなく」)贖罪に励むでしょう。

こういう性根の持ち主なので、救いがないのか、あるいは救いがないことでこのようになってしまったのかは分かりませんが、こうして何か余計なことを書き残しておきたくなるということは、それだけで、すでに心踊るような読書体験であった、ということは確かです。