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存在することの苦痛は、僕の場合はその大半が体調不良です。腰痛や頭痛、必要以上の眠気、消化不良、ここに、他者からの精神的介入が加わると、もう一日中、何も出来なくなります。


などと大仰に言わなくても「度を超えたワガママ」と言ってしまえばそれまでなのですが、ではこういったワガママ野郎には、他の人と同じかそれ以上に、苦しくても自分自身に対して納得がある程度いった状態で生きていくことが許されないのだとしたら、これには強く反対しようという気持ちが(珍しく)発生します。


僕は無気力で、無能力で、無能でワガママなまま、しかし自分自身で納得して生きていきたい。そうでなければ、生きている意味が(あくまで自分に限って)無い、とまで思っています。


人類の歴史から鑑みるに、ひどい勘違いなのでしょう。しかし、それが勘違いなのだとしたら、それを現実との折衝であるだとか、暗示的な反復による自己洗脳であるだとか、そういうものとは別の手段で解消させたいのです。


一切が虚無で、だからこそ元気にやっていくことを目指す。という不真面目なニヒリストとしての態度は、いくつかの出会いと失敗によって構成されてきたものですが、「リスボン物語」などを観ると、それらを含めた「解呪」を実現させるためには、どうしても社会的な地位の獲得が不可欠なのではないか?というように考えてしまいます。


ではそのために、自らの「解呪」のために、苦虫を噛み潰して働いたり、安価な興奮装置に心身を捧げたりすることしか正解がないのでしょうか。そうだとしても、僕は別の誤答をして、それでも朗らかに破滅していくことのほうを選びたいです。つまりまだ覚悟のない、肥大した子供もどきとして、柔和な疫病神として、生きていくことを選ぶだけのひねくれ具合を保っているということになります。