9

Twitterで延々と独りごちている時にも思っていることなのですが、段落を分けることとは別の、小さな区切りを作るということが、行動を可能にするエッセンスなのかなという気がしています。


区切りがなく、大掛かりなものだと分かっていると、その消耗だけが誇張されて、開始することを忌避してしまう性質があるためです。裏を返せば、


やり始めてしまえばこちらのもので、いったん休憩をしたり、優先順位的に別なことをしたほうがいいと理性で分かっていたりすると、そのことが逆説的に行動の継続に拍車をかけてしまいます。


これが日課であるだとか、勉強その他であればいいのですが、娯楽だったりすると目も当てられないことになります。一日潰れるので済めば良いほうで、下手すると精神的にも身体的にも1周間以上の不調を招くほど消耗し続けます。そのことが、大掛かりなこと(しかしやるべきこと)を避ける言い訳にもなるので、実害としては消耗そのものよりもこちらのほうが問題かもしれません。


しかし、娯楽はその性質上の限界を持っています。息抜きとしてやることで、息抜き以上のものが手に入らない仕組みになっているからです。ゲームをすればするほど、少なくない金額が結果を問わず入ってくるならば、僕はこれまで以上に喜んでゲームをやります。


翻って、義務的なもの、労働全般に対して、ゲームなどが持っている娯楽性を見出すことのできるほどの、先天的性質と体力を持っている人間であれば、これは社会に迎合した存在であると言えるでしょう。