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10年間ほど、自分が何をしても全て無意味だったと思っていたのですが、これは間違いというよりも雑な考え方で、


まず、「意味がない」と「価値がない」が違いますし、マイナスの意味も、無意味だったということも、等しく「意味」であるとも言えます。


したがって、ここで嘆きたかったのは「自分の行動には、価値をうみだすほどの意味がなかった」ということでした。これを無意味と区別して「価値未到達意味」とします。


全ての意味は絶えず変化するので、「価値未到達だった」という判定を厳密に下し切ることは不可能ですが、生計という一面においては、「それを終了するまでに、十分な価値につながらなかった」または「今日に至るまで、十分な価値につながっていない」という要素をもって、「価値未到達意味」を定義すると、なるほど、僕のやってきたことは全てこれです。


なので、できるだけ早急に、「価値到達意味」を発生させなくてはいけないのですが、就労が不可能で、かつ能力のない人間(悪事を働くことすらできない)が、これを逆転させることはできません。
そこで、価値を発生させることへ向かうことをいったんやめて、一見価値の発生しそうにない行動、価値とは無関係な行動を取ることにしました。


「価値未到達意味」をさらに「意味不明」へと下位変換することで、何が起こるかというと、その価値発生を想定(期待)する分のコストを、単に「行動する」ことに振り分けることが出来ます。


どうやらそういうこと、「無意味」との親和性が僕にはあって、そのせいか、何かを成し遂げようとしていた頃よりも、沢山の「行動」ができています。


無論、それらの行動が何らかの価値に結びつく可能性はさらに低くなったわけですが、0.001が0.0001になったとしたら、それを10以上やれればいいので、その方が、自分の「好み」です。