ブレストの再開

 3月までやっていた個人的なブレストを読み返して、やはり何かを毎日書くことにはよい効能があると判断して、今度は負担感が生じないようにかなりハードルをさげて再開していこうと思った。

 

 このブレストもまた将来的に読み返すことになるかもしれないけれど、単に嗜好としてではなくて、この反復運動から何かを生み出すことができたら本当は理想なのだった。そのためには、こうした事以外に、何らかの学習が必要であるように思われる。

 

 一度読んだ本で気に入ったものについては、今度はその内容をWorkFlowyで入力し直すということをしているが、集中力がないので、内容も断続的にしかおさらいできていない気がする。なんとなく、そういえばそんな話をしていたな。という程度の理解しかできないので、はたしてこんなことに意味があるのだろうかとも思う。

 

 かといって、「脚本術」みたいな本を買ってみてもなんだからつまらないというか、別に脚本を書きたいわけではなかった。ということが分かっただけで、他にしようという学習の方法もなく、惰性でそれを続けているのだけど、そこに内容とは別の、著者の「語り口」みたいなものがあるというのを、黙読時より一層感じるということはある。声色に近いような印象がある。

 

 そして、すぐその語り口に影響を受けてしまうのだった。したがって、この文章も、誰か彼かの語り口に取り憑かれているものである。そこには、ずっと昔に読んだものも少なからず混ざっている。

 

 そこに何らかの価値があるかどうかは別として、自分がやっても苦ではないことのうちに、テキストを作るということがある。テーマなどの制限があると途端に息苦しくなってしまうのだけれど、テキストに限らず、「誰にも頼まれていないこと」であれば、体力が続く限り、延々とやっていられたりする(その体力が人並みでないことが問題であるのだけど)。

 

 何もしないよりかは、そういうことをしたほうが良い。ということについては、ようやく確信を得ることができて、では次に、どのようにすれば、より良くなるだろうか。ということについて考え始めたのが先月くらいの話で、だから当分はうまくいかないことを、ああでもないこうでもないとやり続けるのだろうと思う。

 

 ただ、それとは別に、漠然とやらねばと思っていることがあって、それは「やりかけのものをクリアする」ということだったりする。いくつかのことは、先方に頭を下げて、反故にしてもらったのだけれど、一つだけ、自分で言い出してそのままになっているものがある。

 

 それは当時の自分にとっては、もちろん今の自分にとっても、あまりにもハードルを上げすぎたものだった。それをやるにはいくつかの準備が必要だったのだ。ということで、その準備をゆるゆるとやってきたのだけど、その準備のうち、もっとも手を付けていない領域というのがあって、それが「物語を作ること」である。

 

 だから、もうそろそろ、それをやらなくてはと思うのだけど、そこにも「ではどうやるか」についての悶絶があって、今のところ、やってみたことの一つもうまくいかない。

 

 「誰にも頼まれてない」ことは救いではあるけれど、そのことにずっと胡座をかいていたのも事実なので、結果的にダメだったとしても、そのあたりのことについてずっと考えていきながら、そんなことより重要なはずの生計の立て方についても、のんべんだらりと考えていきたい。