flow2018040401 「ただ居ること」から(note.muより転載)

 おかげさまで、何とか生活できていて、有り難いお話もいくつかあって、それらが少しずつ進んでいる状況であるけれど、これが来年以降も続くかは本当に分からない。

 そこで、焦ったり苦しんだりして思考力が低下する前に、今考えていることを文章にしようとしてツイートしまくっていたら、先程Evernoteとの連携が止まってしまったので、大体のところをこちらにまとめてみようと思う。

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 今日一日ずっと考えているのは、「生産性とセンスが無い(あるいは十分ではない)人間が、そのままでどうやって生きていけるのか」ということだ。そして、そのための一つの手がかりが「ただ居ること」ということではないかというところまでは、曖昧ながら言葉にできた。

 現実世界で、電話番や雑用の人員として日中過ごしていることもあって、まず「ただ居ることの威力」というのが存在すると実感したことがあると思う。防犯、連絡(伝言)、簡単な分担、送迎、あとは多少パソコンに慣れているというだけで、ほんの少しではあるけれど、人の役に立つことができる。

 そこには能力やセンスがまったく関係ない。知識と経験はおろか、ただ居ることの威力があるだけだ。

 それならできる。逆にそれ以外のことで収益を発生させることがほとんどできないということではあるけれど、「居ること」は(もちろん失敗も往々にして絶えないながらも)、自分にできるということであると、認めざるを得ない。

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 問題は、その「ただ居ること」をどのように収益に結びつけるかなのだろうか。そのあたりでどうも考えあぐねてしまう。

 「ただ居ること」に金銭的対価が発生するのは、そこに居てほしい、あるいは居なくならないでほしい、というニーズが生じている状況だ。

 しかしそれは能力や知識、資格を求められているわけではないので、当然生活に十分な対価にはなり得ない。また、「ただ居ること」はその性質上、重複させることができない(重複しないように、昼夜をそれぞれ別の場所での「ただ居ること」に費やすという方法は、「体力」という「能力」を前提としているのでここでは考えません)。

 もしも、「ただ居ること」の重複を可能にする場があるとすれば、現実とは別の階層においてであり、例えばそれがネット上である。

 しかし、ネット上では数多の人々が「居る」ので、「ただ居るだけ」ではその威力は相対化され、無効化されてしまう。

 その場合に対価が発生するのは、他者との代替不可能性を持つ個人に対してである。したがって「ただ居るだけ」しかできない人間は、そこに該当しない。

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 Accessの開発をし始めてもその点は同様で、ネット上には代替できるどころか、上位互換の人々が山ほどいる。もし差別化が図れるのだとしたら、彼らが手を付けることもないようなチープな案件を引き受けることにあるのかもしれないが、それも海外を視野に入れられてしまうと太刀打ちできないだろう。

 ただ、クライアントが直接すぐ会える点を求めているということであれば、絞り込み条件に「近所」が加わるので、競合他者はグッと少なくなる。もちろん、こういうことはメリットだとは言い切れない。地理的条件は競合他者だけでなく、マッチングそのものの母数を制限するからだ。

 そこは地縁血縁にすがって、何とか前例を一つでも作ろうということで、珍しく奮闘しているのだけれど、このやり方が向こう数十年も通用するとは思えない。そもそも今回が大丈夫なのか、今回きりではないのか、まだ見当もつかない。

 だいたい自分の「能力」であるだとか、それを増進させる「努力」というような概念にすがっても何にもならなかったからこそ、こういうことを考えているのであって、有利な条件において自分の能力的な価値を相対的に高めるという発想自体が蛇足ではあった。その蛇足で生きていくことができるのであればそれに越したことはないけれど、そういうこととは別なことを考えていくつもりでいる。

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 ということで、それとは別に、誰かが可能な形で何かを発信し続けること、発話し続けることが、ネット上において「ただ居ること」のための前提だと考えていたりして、ではReadOnlyMember(発信せず読むだけの人)は、自分が今ここで言っている「居る」には当たらないのだろうかと思う。

 そこで、ネット上においては「ただいつも発信や発話をしていること」だけが、自分のできることであって、それをどうやって収益に結びつけるのかということを考える。

 ともすれば、これはブログや作品発表というような領域に通じてしまうけれど、それだと、能力の有無に関わる問題になってしまう。そういったハウツー論的な方向ではなくて、「ただ居ること」に近い「ただ発信すること」だけで、金銭的対価を発生させることができないかを考えなければいけない。ということを言い出したあたりで、何となく自己矛盾の気配がする。

 ただ発信することに対価が発生するのだとしたら、その対価は誰が支払うのか?そんな誰かがいたとしたら、どうして今「ただ発信すること」をしている人たちに対価が発生していないのか?

 対価は相対的な差異によって生じるからではあるまいか。「ただ発信すること」においては、それを実行している人たちの間に差異はない。もしもそこに差異(価値)が生じるとしたら、それは能力や状況の差異である。

 したがって、「ただ発信すること」で生活できるためには、その発信が、それに十分な差異を生み出していなければならず、その時点で「ただ発信すること」から逸脱していることになる。

 翻って現実世界でも、「ただ居ること」だけで価値が生じているということは、それは既に「ただ居ること」を逸脱している。どのような経緯であっても、代替可能であっても、そこには少なくとも「居ないこと」との何らかの差異があって、それが価値の発生を裏付けていることになる。

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 では、能力や素質とは別の要素における差異によって、客観的な価値を創出することはできないだろうか。炎上はその手法の一つなのかもしれないが、自分はそれを選択できるような胆力を持つことができない。

 こんなことを延々と考えて、しかも公にしているのは自分だけのような気もするが、かといって全ての差異が即ち価値になるということでもないということは、Monappyで毎日駄文を投稿したことで(ようやく)分かった。

 この文章を含め、自分の作るものには十分に技巧と呼べるものが無い。それを支える能力・努力・センス、いずれも有意に増進し得ない。ではどうするか?技巧によるものとは別の「差異」を生じさせて、それが誰かの「価値」に到達することを祈るばかりである。いや、祈ることもおこがましいのかもしれない。

 ただ、差異について考えを進めると、一つ心当たりがある。「自分が求めているが、発見できなかったもの」を、自前でこしらえて発信しようとすることは、技巧とは異なる差異が生じる振る舞いなのではないかということだ。

 当然、それが他者の求めている差異であることは、ほとんど期待できない。それでも、それをやること。特に創作活動に限らず、「自分が求めているが、発見できなかったもの」を一つの基準にして、やること。これが「ただ居ること」の次のステップなのだという根拠があるわけではないけれど、やってみるのも手なのかもしれない。